「今、目の前にあることを一生懸命頑張りなさい」
小学生の頃、父に言われた言葉だ。

中学生になって、陸上部に入った。一生懸命走った。本当は美術部に入りたかった。
「学生時代、運動はしときなさい」
これも父の言葉だ。

実際、学生時代に運動部に入ったのは間違いなく正解だった。運動音痴だった私が、中学、高校と一生懸命走ったおかげで、県大会にたびたび出場できるようになった。

「ああ、一生懸命やるっていいな」
素直にそう思えた。父の言葉を信じて、実践して得た物は大きかった。私にとって、父の言葉は全ての目印であり、ルールであり、呪いだった。

「父のルール」が「私のルール」だった。

私を思っての父のルール。私は美大ではなくデザイン専門学校を選んだ

物心ついた時から、絵を描くことが大好きだった。絵を描いている時間が何よりも楽しかった。小学生の頃から、何も考えず美大に行きたいと言っていた。

高校生も終盤、進路を決めなければいけない時が来た。行きたかった美大は遠くにあり、一人暮らしをしなければならず、金銭的に厳しかったので、私はデザインの専門学校を選んだ。

「学校に行けても、生活費で製作にお金を回せなくなるぞ」
父に言われ、確かに、と納得してしまった。
のちのち苦労して欲しくないからと、奨学金は絶対借りさせないというのが父のルールだった。父も私を思っての事だった。

「目の前にあることを一生懸命頑張りなさい」
専門学生になって、目の前にあるものはたくさんの課題だった。目の前にあるものを一生懸命頑張れば、絵を描く道が見つかると思っていた。

理想とは裏腹に、目の前にあるものを頑張れば頑張るほど、大好きな絵からは少しずつ遠のいていった。楽しい感覚が分からなくなっていた。視界が少しずつ狭くなっていくのを感じた。

私が作り上げたルールはコロナを前に敗れた。私は完全に迷子になった

社会人になった。絵と関係のある仕事を選んだ。絵と直接関われる事が嬉しかった。久々の感覚だった。嬉しかったので、今まで同様、一生懸命頑張った。

一生懸命頑張った結果、心の元気がなくなってしまった。また絵の楽しさが分からなくなってしまった。

そして、唐突にコロナが始まった。
コロナ禍でも、目の前にある事を一生懸命頑張ろうという気持ちだけは変わらなかった。
一生懸命頑張れば、何かが報われると信じて頑張った。でも、そんな簡単な話ではなかった。
コロナ禍で会社の状況は悪くなり、日常生活も上手くいかなくなった。

目の前にある事を頑張り続けた結果、完全に迷子になった。

「父の掲げるルールを基に動けば間違いない」という私が勝手に作り上げたルールは、コロナという魔物を前に、完全に敗れてしまった。

敗れてしまってから、気づいた。

私の中に、ずっと縛り付けている「もう1人の私」がいる。
「もう1人の私」はずっと私の世界のルールに縛られて動けずにいる。

解放してあげなくちゃ。
そう思った。
自分の絵としばらく向き合えていない事に気づいた。

古きルールから私を解放した。私が作った新しいルールで生きていく

会社は辞めて、今はフリーターとして働いている。父はやはり反対した。

でも、もう父のルールは私のルールではない。呪いは解けた。私は私を解放した。
この選択が正しいとは思わないし、親不孝と言ったらそうなのかもしれない。
それでも私は私の絵と向き合いたい。死ぬまでに一度でもいいから本当に自分の好きな事に一生懸命になりたいと思った。これでダメならきっぱり諦めて、父よりも強大な、世間のルールに収まろうと思う。

自分を解放してやっと気づいた。
ルールなんてものは自分で作り上げた縄だった。自分で作った縄なのだから、壊すことなんて容易いはずなのに、ルールを意識すればするほど、結び目はどんどんきつくなっていく。
息が止まりそうになって初めて、自分で自分を苦しめている事に気付く。

縄は使い方によっては救命道具にもなる。
私は縄の使い方を完全に間違えて覚えてしまっていた。
縄が救命道具になる事を、「もう1人の私」が教えてくれた。

今は「もう1人の私が作った新しいルール」と向き合って生きているおかげで、とても楽しい。父ではなく私が作り上げた、絵と向き合って生活していくためのルールだ。古きルールから解放した事は大正解だった。

もしも今、悩んでいる人がいるなら、自分で定めたルールで自分を縛ってしまっていないか、確認して欲しい。

ルールの縄は、思っているよりも簡単に解ける。