スマホ首、スマホ用に変形した小指、幻想振動症候群。私だ。
私が高校2年生の時に周りでインスタグラムが流行りだした。当時クールを気取っていた私は、全く興味がないふりをしていた。

興味があったものの手を出せなかったインスタをついにインストール

「自由が好きだから、複数の人と別に連絡なんてとりたくないし、自分の時間が大切で、身近な友達以外の人の私生活なんて知ってどうなる」が周りに言っていた内容で、内心は興味津々であり、写真も投稿してみたいし、みんなからのコメント見てみたい!と。しかし、その周りからの反応が自分への評価と成りうる気がして、軽率に手を出せずにいた。

しかし高校2年生の終わり頃、周りの会話があまりにもインスタグラム関連のものが多くなり、さすがに寂しくなった私はついにインストール。誰もハート押してくれなかったらどうしよう、消してしまおうか……という初期の不安は気苦労であった。

私は1つのグループにずっといて固定の親友がいるタイプではなく、どんな人とも会話して過ごす根無草タイプであり、それが功をなしたとでも言うのか、投稿のハートのスタンプは基本100を超えた。
友人と遊ぶ事は心が躍り、わざわざ貴方の時間をありがとう、遊んだ日の事は忘れないぞ!と思う。そんな日々のアルバムとしてインスタグラムに投稿していた。

人生で1番時間を消費したといっても過言ではないインスタグラムの存在

時が過ぎ、気づけば20代半ば。家族と仕事関係以外の人達との連絡手段はインスタグラム。そう、インスタグラム。私はまだ現役バリバリでやっている、アカウントもずっと変わっていない。

約8年の間に、私のたわいもない日々に周りが反応してくれる事が、私の生活の一部となってしまった。学生時代程ハートの数もフォロワーの数も気にしたりはしないが、今までの人生で1番時間を消費したアプリはインスタグラムな事は間違いない。

思い通りに物事が進まない、行動するのが億劫、将来が不安である、私はなにもない。そんなバットな気分の時は、インスタグラムの過去のストーリーや投稿を見にいく。
インスタグラムには楽しかった出来事しか載せていない。クセでタップしただけであろう、友人の適当なハートも私を支えている。

昔と変わったのは、ハートは数ではなく、誰が押してくれたのか見にいってしまうこと。つまらない投稿でも毎回押してくれる子には勝手に親近感を抱いているし、簡単に言うと好きだ。

インスタグラムを見ると、写真と文章で、投稿当時の状況に浸れる

昔の記憶を曖昧に思い出すのではなく、写真と文章、当時の反応を見る事で簡単に昔のその状況に浸れる。老後の回想シーンを早めに思い出している状況のようである。
まだ過去を振り返って浸るのは早い気がするが、それだけで私は少し満足するのだ。明日も楽しく過ごそうとなる。

同級生などと集まって、お酒を飲みながら、昔話をするのとあまり違いはないと思っている。過去に戻りたいと思っているわけではない、昔よりも買える物は増え、お金をかければ肌や髪も10代より綺麗になる事を知ったし、歳を重ねる事に理解出来る事は増え、感じ方だって過去よりも未来の方が敏感になるのだと思っている。

コロナ禍で予定を詰め込まずに、ゆっくりと家で過ごす事の喜びも知れた。そんな気づきの中でも、直接言葉を交わさずとも、肯定感をくれるインスタグラムは強い。気付いたら開いている、なにかしらの快感を私はインスタグラムを見る事によって得ているのは明白である。

そのようにして得る肯定感・快感はある意味現代にとって当たり前と思えるし、スマホ首・スマホ用に変化した小指は進化のようである。
スマホ中毒の症状として当てはまる項目が多くても、インスタグラムをアンインストールしようと思った事はまだ一度もない。きっと会費が万単位で請求されるようになるまでは、今後もずっと私はインスタグラムを精神安定剤のように使用し続けると思う。