10年間苦しんだ摂食障害とようやく向き合う覚悟が出来、それによって壊れた体を治すべく病院巡りを始めた。
最後の大門、精神科への受診を終えた後、「必要であれば連絡ください」そう言って一枚の紙を渡された。
"診断書が必要な方へ"
見出しの大きく描かれた書類の内容は、障害者手帳を貰うための手順と、それに必要な書類を発行するのにおおよそ5000円かかります、そしてその後の医療費免除などの目安が細かく書かれていた。
この紙を一枚貰って、役所に提出する。
そして許可が下りれば、私は"障がい者"になる。
苦しかったのは事実だけど、"障がい者"になるってどういうこと?
ずっと苦しかったのは事実だ。
食べられないが故に働けない身体、人の10倍は脆い心、心の闇に比例して必要になる医療費に積み重なる借金。
周囲の人達は、認定を貰えば生きやすくなると言った。
確かに毎回の病院代が安くなり、補助が出れば金銭的にゆとりが出る。
万が一仕事に行けなくなった時、サポートをして貰いやすくなる。
今は両親が健在だけれど、万が一、一人ぼっちになった時、守ってもらう場所ができる。
そう考えると申請しておいて悪いことはないだろう。
あまり詳しくは理解しきれなかったけれど、つまりは書類を貰った方が絶対いいとのこと。
けれど私は考えた。
"障がい者"になるってどういうこと?
生まれてから食べられないこと以外はごくごく普通の生活を送ってきた。
頭も悪くはなかったから、テストの点で怒られることもなかったし、親からありがたく受け継いだ運動神経は、かっこいいと呼ばれるのに一役買った。
通知表にも、
「真面目で明るく元気な子です」
そんな当たり障りのない言葉しか書かれなかった。
高校に進学し、毎日部活動と周りのみんなを笑わせる事に全力を尽くし、大学生になったらバイトに飲み会に恋愛に、それはそれは忙しい日々を送った。
社会人生活にだってきちんと馴染めた。
みんなと同じように決められた時間を働いて、仕事終わりに先輩たちとの飲み会に参加したり、後輩の悩み相談に付き合ったり。
職場を離れれば学生時代からの友人と旅行に行ったり、招待された結婚式で余興を行ったり。
どこにでもいる、普通の人間のよくある人生だ。
食べられない事以外は。
それは今だってそうだ。
1日8時間働いて、一人暮らしの家に帰る。
そして朝を迎え、また仕事へ向かう。
心のどこかで今まで普通だった自分が普通でなくなる恐怖は拭えない
その紙切れ一枚で、私の何が変わるのだろう?
友人も家族も今までと変わらず優しく接してくれるだろう。
けれど、何も知らない職場の人は?
最近仲良くなった気になる彼は?
私が障害者だと知った全く知らないすれ違う人たちの目は?
「障害を持った人には優しくしましょう」そう教えられている世の中だから、きっと今まで以上に優しくしてくれるかもしれない。
けれど、それは弱者に対する配慮のような優しさで、対等な人間に対しての優しさではない気がする。
そう考えると、自分がまるで欠陥のある人間であるかのような、他の人より遥かに劣った人間であるかのような感覚に陥ってしまう。
もしかしたら、「それでも好きだよ」と周囲の人達は温かく受け入れてくれるかもしれない。
けれど、心のどこかで今まで普通だった自分が普通でなくなる恐怖は拭えない。
私は何も変わらないのに、書類一つで世界が変わる恐怖に直面している
変わってしまうのは人間関係だけではない。
ようやく出来たやりたい仕事。
海外で働きたいという夢。
中途採用で飽きるほどに見た、応募条件の欄に書かれた「心身ともに健康で〇〇歳以下の……」。今まではしれっと隠し通せていたものが、堂々と引っかかってしまうことになる。
散々たくさんのものを犠牲にしてきた病気のせいで、明るい未来まで奪われてしまうかもしれない。
昨日も今日も、1週間後も1年後も私は何も変わらない。
周りからの目も変わらない。かもしれない。
それなのに、その書類一つで世界が全て変わってしまう恐ろしさに今直面している。
自分の弱さと向き合うようになると同時に、今までは見えてこなかった社会のあり方に対する疑問が生まれてきた。
パラリンピックで、ハンデを持った人たちが活躍し、夢や希望を世間に与えたけれど、やはり、ハンデを持った人間は、"ハンデを持った人"という認識を世間から受けながら、"普通の人"と、区別され生きていかなければならないのだろうか。