顔を上げて。せっかくかわいい目をしているんだから、ちゃんと見せましょう。Be confident!

右隣からそっと渡されたメモには、小さくて丁寧な字でそう書かれていた。私はぱっと隣を見たけれど、先輩はいつも通り穏やかな横顔で楽譜を見ていた。
あの時何に思い悩んでいたのかは忘れてしまった。自信がない。自分が嫌い。息をするだけで苦しい。それがいつものことだった私は常に何かが苦しくて、ただあの日はそれが少し顕著だったのだと思う。

ただ何も言わずとも何かを察してくれたらしい先輩の、あくまで部活の先輩としての言葉に荒んだ心ごと優しく包まれたような心地になってうっかり泣いたのをよく覚えている。

コンプレックスを抱えながらも、強くてきれいな先輩を目指すように

出会ったときから目を惹く先輩だった。小柄で笑顔が素敵で、なによりかわいい。入部二年目、先輩と同じソプラノに配属され音楽室での座席が隣になったことをきっかけに先輩とよくお話しするようになった。

お互い本を読んだり文章を書いたりするのが好きだったから、先輩が好きと言った本は全部読んだ。リレー小説に付き合っていただいたこともあったし、英語が堪能な先輩に勉強を見てもらったこともあった。

私は先輩と話すのが好きだった。いつも穏やかな笑みを湛えて、優しい言葉で話してくれる。私が知らない世界のことをたくさん教えてくれる。先輩はいつでも世界を見ていた。世界を見つめる先輩の目が、私は大好きだった。

そんな先輩が実は長らく自分のコンプレックスと戦っていたと知ったのは些細な会話の中からだったと思う。それこそ悩み卑屈になる私に自分の体験を交えて話をしてくれたのだと思うけれど、その姿が私にはとてもきれいに映った。

どんなときも自分の芯をしっかり持ち、自分の弱さや醜い感情さえも優しさで包み込んでしまえるのは紛れもなく先輩の強さだった。

私もそんな強くてきれいな人になりたい。先輩が私にしてくれたように、誰かの心を優しく包み込んであげられる人になりたい。そうすれば私も私のことをほんの少しだけ、好きになれるような気がする。雲の上の存在だった先輩はいつの間にか私が目指す背中になっていた。

暗闇の中でもがいていた時に知った先輩の近況。一つの光が見えた

そして先輩が卒業してから二年後、私が卒業する年の引退公演のリハーサル。客席でステージを見ていた先輩の妹が戻ってきた私に言った。
「姉が帰ってきたと思いました」
嬉しかった。彼女もまた姉である先輩が大好きで尊敬していることを知っていたからこそ、その言葉は何よりも嬉しくて、私はその時生まれて初めて、ほんの少しだけ自分を好きになることができたのだった。

しかしそれも長くは続かなかった。大学に入学して半年で不登校になった私はあまりの情けなさと不甲斐なさで何事にも悲観的になっていた。立ち上がろうとしても足に力が入らず、前を見ようとしても顔が上がらない状況の中で精神状態は過去最悪だったはずだ。
なんとか大学に復帰しても自分に対する嫌悪感は消えることがなく、それが生来の繊細さに拍車をかけ自分で自分の首を絞めるようになっていた。

足元から崩れてしまいそうな暗闇の中でもがいていた時、ふと先輩の近況が気になった。
探してみれば学生時代には留学に行き、海外への就職も決まったらしい。そしてそこに書き連ねられているのは、あの時と何も変わらない、先輩の優しさですべてを許して包み込むような言葉の数々だった。

涙があふれた。ああ、先輩は先輩のままなんだ。きっといろいろなことがあっただろうに、全部ひっくるめて「よし」としているんだ。

そう思ったとき、真っ暗だった自分の視界に一つの光が見えたような気がした。
先輩みたいな人間になりたいと思いながら過ごしてきたあの日々はまだ続いていた。お互い卒業して、連絡も取らなくなってもう何年も経つけれど、先輩はいまもなお私の憧れなのだ。

先輩が「かわいい」と言ってくれたこの目で、世界を見ていこう

そう気づいたとき、私はようやく再び立ち上がることができた。先輩のように在りたいという憧れだけは、真っ暗な中にあってただひとつたしかなことだった。

私はようやく次の春、大学を卒業する。人より二年長くかかった上に、精神状態は未だに不安定で揺らぎやすい。先輩の妹に「姉が帰ってきた」と言わしめたあの頃の私よりもずっと惨めでみすぼらしいと思う。それを丸ごと受け止めるには私はまだ弱くて、先輩みたいな優しさですべてを包み込める人間にはほど遠い。
それでも、隣で話した日々が過去のものになっても記憶の中から私を導いてくれた先輩のようになりたい。

顔を上げて。せっかくかわいい目をしているんだから、ちゃんと見せましょう。Be confident!
一度崩れてしまったものはそう簡単に元には戻らない。けれど時間をかけてでも、私は先輩みたいになりたい。だからどんなに目を瞑りたくても、どんなに俯きたくても、立ち止まっても挫折しても、顔を上げ続けなければならない。

先輩ならきっとそうする。だから私は顔を上げる。
あの時先輩がかわいいと言ってくれたこの目で、ちゃんと世界を見なければならないのだ。