「花の匂い」
そうとしか表せないけれど、確かに花の匂いの柔軟剤でした。
あの人からいつも香っていた。
あの人。私が唯一本気で恋した人。
あの人の愛と花の香りに包まれていた中学時代の、幸せだった記憶
馬鹿な私は、中学時代に本気の恋をしました。
物語みたいでした。本当にどうしてか分からないけど、似た者同士惹かれ合って、いつも一緒に過ごしていました。
図書室、あの人の膝の上で。教室、授業中も見つめ合って。放課後、ふたりきりのスクールバスの中。
幸せでした。いつもあの人の花の匂いに包まれていて、そこは何より安心できる場所で。私の幸福は、あの人の匂いに包まれたときだと刷り込まれて。
あの人はいつも私を想ってくれていました。膝に乗ったときのお腹に回る手が、話すときの優しさを凝縮した視線が、歩くときの私に合わせたゆっくりとした歩みが、全てが私を愛していると語ってくれていて。あの人の愛と匂いに包まれて、私は幸せの絶頂にいました。
幼い恋は上手くいかなくて。
解けるのは、簡単でした。
お互いが遠くなって半年、あの人の匂いと廊下ですれ違うたびに振り返って。
一年、私を包まなくなった匂いにも慣れてゆっくり目を閉じる。
二年、時折香るあの匂いにあの人は元気そうだと安堵し。
そして三年、もう嗅ぐこともなくなるその匂いを懐かしんで。
そして、高校は離れました。
見知らぬ誰かから香るあの人の匂いに、癖みたいに振り返ってしまう
けれど、あの柔軟剤、市販品だもの。香るんですよ、偶に。見知らぬ誰かから。
そんなあの人は間違いなくここにいるわけないのに。振り返る私がいるんですよ、癖みたいに、呪いみたいに。あの人にまた会えるんじゃないかって、また……、また愛してくれるんじゃないかって。
何度も、何度も、何度も振り返っては落胆して、心臓が痛いんです。何度も、何度も、何度も、私は振り返っては無情な現実に、自らを傷付けに行くんです。傷つくと知りながら、止められないのです。
まだ好きなんです。あの人の私に対する愛からくる優しさが。スクールバスの中で照れながら私のファーストネームを呼ぶ姿が。一人が苦手で、寂しいと怒ってしまうところなんかも。
何年も何年も会ってないのに、まだ思い出せるんです。あの人の私を撫でる手のひらの熱が、話してるときに少し上ずる声が、時々触れた体温が。
何年も何年も、私の中で膨らんで膨らんで、膿んでしまいそうなほどあの人が好きで。
ずっとあの人を思い続けて、あの人の愛なしじゃ生きられなくなって、他のいい匂いにも素敵な人にも振り向けなくなって。
あの人がいいの。あの人のあの匂いじゃなきゃ嫌なの。あの人じゃなきゃ駄目なの。
繰り返し、あの匂いに振り返ってしまうぐらいに、私の中に染み付いて、どうしようもなくて。苦しくて苦しくて、でもこの記憶が、想いが、匂いが、愛しくて愛しくて、たまらなくて。
一度、どこかの駅でまたこの匂いに気づきました。あり得ないと思いながら振り返った先。電車の窓越しに、貴方と視線が絡みました。そして、電車は過ぎ去っていきました。私はもうそれだけで、報われたと思ったのです。思ってしまったのです。
恋の終わりを知ったのは、私が愛していた「匂い」に気付いたとき
成人をして大人になって、酸いも甘いも噛み分けるようになってやっと初めて、あの人と連絡を取って会うことになりました。
実に10年振りぐらいの再会。
一人暮らしをしているあの人はどこか変わっていて、でもあんまり変わってなくて。「変わってなくて悪かったね」なんて皮肉を返してくるところも変わってなくて。
でも変わっていました。変わってしまっていました、確かに。
その、一人に慣れた姿。もう、一人を寂しがらない、私を見つめる、感情のない瞳。そこには私への愛はなく、冷めた一人の人間が立っていました。
「行くか」
そう言い置き、私の方を振り返りもせずに歩いていく背中。そして……、そして、使うものを変えたのだろう柔軟剤。
私は気付きました。
私が愛したのは、あの匂いだったのだと。
あの匂いなら、あの匂いに包まれたら、私は愛してもらえるのだと。幸せになれるのだと。
そう、盲信して。
もうこの人からしなくなったあの柔軟剤の匂い、私の中の確かな変革。
私は、この恋の終わりを知りました。
あの人と別れて最後、電車の中で一粒、涙を落としました。
さよなら。
わたしはもう二度と、あの匂いに包まれることはないでしょう。
あの人なしで生きていけてしまうでしょう。
そして私は、あの匂いにも振り返らないのだろうな、と予感しながら。