目が覚めると、真っ暗な部屋の中にいた。
ズキズキするこめかみは昨夜の負債。身体中に纏わりついた熱を冷ますように掛けられていた毛布を払い除け、重たい身体を起こす。
元彼の部屋だった。暗くてあまりよく見えないけれど匂いでわかる。煙草と香水の入り混じった懐かしい匂いが、そこらじゅうに充満していた。
結局泊まったんだ。ぼんやりとして頼りない記憶を一つずつ辿る。

完全に泥酔すれば怖いものなし。思いの丈を元彼にぶつけた

ある涼しい晩、何の前触れもなく、夏に別れたばかりの元彼から連絡が来た。
振られたのはわたしなので、拭いきれない気持ちが停滞して心を覆っていた。このまま会ってしまえば彼の思うツボだとも思ったが、駆け引きをしている余裕なんてない。
いつかのデートで着ようと買っておいたものの、結局見せずじまいになった長袖の服に身を包む。地下鉄に揺られながら、時折感じる振動とともに彼と過ごした短い夏の記憶が、波のように寄せては返す。

指定された居酒屋に着くと、元彼と彼の友人が二人、談笑していた。友人Aはわたしも面識のある人で、わたしたちが付き合い始めた日も一緒にいた人だった。

「とりあえずお前ら二人はちゃんと話せよ」

Aは散歩してくると言って、わたしと元彼を店に残した。
久しぶりに再会した彼と素面では話せない。わたしは、運ばれてきたレモンサワーを次々に飲み干した。完全に泥酔してしまえば怖いものなんてなく、思いの丈を思うがまま彼にぶつけた。

彼の些細な誤解から別れることになってしまったこと、わたしの行動がその引き金に手をかけてしまったこと、別れる前に話をしたいと言ったのに会ってくれさえしなかったのはあまりに無責任だということ……。付き合っていたときは嫌われたくなくて言えなかったことを、何もかも明け透けにしてぶつけてしまった。
元彼は呆れているようだった。疲れた様子の彼を見て、本当にもう戻れないのだと悟った。悲しくて情けなくて惨めで、なんだか泣けてきた。くやしかった。

Aは親身になって話を聞いてくれた。やがて深い眠りに落ちて

散歩から戻ってきたAは、惨状を目の当たりにして呆気に取られているようだった。
それもそのはず、彼にしてみれば自分の友人の元恋人が泣いているのだ。そんなわたしを心配してのことか、Aは元彼の家に自分も泊まるからお前も泊まるぞ、と介抱してくれた。
わたしが元彼と一緒にいたくないとゴネたので、Aがわたしを連れて先に元彼の部屋へ上がった。部屋に着くとAはわたしに水を飲ませ、親身になって話を聞いてくれた。

「お前、ホント好きだったんだな。ノリで付き合ったんだと思ってたよ」
「初めはね、雰囲気に流されてたけど。あとでだんだん好きになった」
「ごめんな、俺があいつと飲む約束したときにお前呼び出そうって言ったんだ。あいつから聞くまで別れたって知らなくて」
「いいよ、Aは悪くないし。来ちゃったわたしがいけなかった」
「なんであいつも泣かせるまで言うかなあ」
「ほんとだよね、こんなはずじゃなかったのに。なんでこうなっちゃうのかな」
「それは、あの夜に君がぼくを選ばなかったからでしょう」

急なよそよそしさに突き放された気がした反面、胸が高鳴った。微笑みを含んで、なにそれ、どういう意味?と聞きたかったけれど、うまく言えずに口の中でぬるくなった水と一緒に飲み込んだ。
彼の顔は照明の逆光でよく見えなかった。記憶はそこで途切れた。
夢か現か、嘘か誠かは曖昧なまま、いつの間にか深い眠りに落ちていた。

手を繋いで歩いた。世界にわたしたちだけしかいないみたいな朝

ひとしきり思い出したところで、後悔やら情けなさやらも相まって更に痛んできた頭を抱え、ベッドのひんやりするところを探した。
さっきまで自分が横になっていたところが熱を帯びている。その隣に温かくて大きいものが息をしている。おそるおそる触れてみると、知らないぬくもりだった。

Aだ。なんだか嬉しかった。おぼろげだった記憶が輪郭を携え、本当の出来事の顔をしてわたしに近づいてくるような気がしたのだ。途方もない暗闇の中で現実感のない孤独に蝕まれていたわたしにとって、それは紛れもない光だった。
記憶を確かめるように彼の肩の輪郭をなぞった。大きい塊は目を覚まし、上体を起こして文字通りわたしに近づいてきた。暗くてよく見えなかったけれど、彼の優しい眼差しを感じた。わたしたちの間に言葉はなかったけれど、だいじょうぶだよ、と言われている気がして、その瞬間たまらなく愛しさが込み上げてきた。
引き寄せられるようにわたしたちはキスをした。

元彼が目を覚ましてしまう前に、わたしたちは部屋を出た。まるで誰かが夜のうちに仕込んでおいたかのように街は冬のなりをしていた。
明けゆく始発前、小雨が降り注ぐ駅の周辺を、傘も差さずにふたり手を繋いで歩いた。冷たい風が場違いなわたしのフレアを揺らす度、彼の手に力が込もった。世界にわたしたちだけしかいないみたいな朝だった。
このままどこかへ行ってしまいたいと強く思ったけれど、伝えることはできなかった。わたしたちは結局、そういう二人だった。

駐車場に停めてあったAの車で仮眠をとって、目が覚めると何もなかったふりをした。打ち合わせていたわけではなかったけれど、彼もそうしていた。そして全部忘れたように手を振って別れた。

一応「またね」と言ってみたけれど、Aとはそれきり会っていない。あれから同じ季節が巡ろうとしているけれど、どうしても焦がれてしまう。
あの夜のぬくもりにまた出会えるだろうか。