忘れられない匂いの話しがある。
小学生の頃、登校班の友達に「おばあちゃん家みたいな匂いがするね」と言われた。
実際祖母と暮らしていたが、それは祖母の匂いではなかったと思う。

ある日友達は私に、「おばあちゃん家みたいな匂い」がすると言った

庭先で干した沢庵用の大根の匂い。軒先に吊るして作る手作りの切り干し大根やかんぴょうの匂い。
梅干しの樽の匂い。手作りの味噌の匂い。タンスには昔ながらの虫除けの袋が入っていた。
そうした昔ながらの匂いに包まれて育った。
それが私の「普通の匂い」だった。
私は妙に繊細で傷つきやすい子供だった。

些細な「おばあちゃん家の匂い」にもやっぱり敏感に傷ついてしまったし、まだ幼い私にはどうすることも、なにをしたらいいかもわからなかった。
とりあえず、学校に着くと私は丁寧に石鹸で手を洗った。少しでも実家の匂いを落とすために。

友達の家に遊びに行っても、やはりそこには別の匂いが広がっていた。
薔薇の芳香剤を玄関に置いている家もあったし、実際に生のお花を生けている家もあった。
やはりどこの家もお洒落で上品な匂いで、私はぐったりとした。
そんなおばあちゃんの家の匂いの実家暮らしも、18で終止符が打たれた。

一人暮らしを始めて5年。懐かしくて落ち着く香りが好きだと気づいた

私は関東に旅立ち、一人暮らしも5年目を迎えようとしている。
玄関には無臭タイプの芳香剤を置き、柔軟剤を使い分けて洗濯をする女になった。
そんな幼少期があったから、匂いには敏感で、勤め始めてからは仲のいい年上のパートさんに柔軟剤がキツすぎないかチェックしてもらっている。逆にいい匂いの人には、どんな柔軟剤を使ってるんですか?なんて訊ねたりもしている。

ここ数年で、人工的な強い匂いはあまり得意ではないことも判明した。以前付き合った恋人から誕生日にもらった香水は人工的過ぎて使えないまま、封印された。
私の好きな匂いは、入浴剤の柚子の匂い。

なんとなく懐かしくて落ち着くので、疲れた日のお風呂時間は決まって炭酸タイプの柚子か、全国の温泉の素を使うのが日々の癒しである。
柚子の入浴剤は、私の18年間過ごした実家での一番好きな匂いだった。

私が入浴剤好きなので、父がストックしてくれていたのかもしれない。
固形をお湯にポトンと落とした時に広がる柚子の匂い。少しずつ小さくなって、最後には指輪のような穴が空いて薄っぺらくなるのも好きだった。

実家を離れて暮らす私からは、もう「懐かしい匂い」がしなくなった

実家に帰省して匂いを嗅ぐと、それまでわからなかった「懐かしい匂い」がようやくわかったような気がする。
同時に、あの頃言われた「おばあちゃん家みたいな匂い」もなんとなくわかる気がした。
あれは多分、悪口でもなかったし、純粋な感想だったのだと今になってようやく思う。

悪い意味ではないことはずっと前から、小学生のあの瞬間から分かっていたのだ。
それでも古くさい匂いを消し去りたかった。
実家を離れて暮らす私の中からは、もうあの匂いがしない。
それが今ではなんだか無性に寂しくて時々悲しい。
そう思うのはやはり、あまりにも都合がいい話……なんだろうか。