小さいころ、私のお気に入りの場所は玄関であった。
理由は一つ。下駄箱に入っている父の革靴の匂いが大好きだったから。
あの何とも言えない、革の匂いがたまらなく好きだった。だから、気づけば私は下駄箱を開けて、狭い玄関で過ごしていた。
人よりも自分の嗅覚が優れていることが、良かったと感じるとき
母は常に香水をつける人だ。だから、空港にある免税店や、デパートの香水売り場に行くと、私は、母と一緒になって、紙に香水を振りかけては匂いを比べる、ませた娘だった。
私が自分の嗅覚が、人よりも優れていると覚ったのは小学生の頃だった。私は、革靴や香水などの強い香りがあるものだけでなく、人の匂いまで判別がついた。そのために、ある日、名前の付いていない体育着が、誰のものかを突き止めたのも、私の鼻であった。
自分の嗅覚が優れていることが、良かったと感じるときがたまにある。それは、ふとした瞬間に香ってきた匂いで、呼び起こされる記憶が鮮明であるときだ。それまで、全く忘れていた過去のことが、ふとした匂いで、突如その時のイメージとして現れる。そんなとき、その当時を懐かしみ、ノスタルジックな気持ちになる。
敏感で嫌なことも少なくない。記憶がよみがえって厄介なこともある
私は四季の移り変わりさえも、匂いによって感じ取る。冬の石油ストーブと冷たい空気の匂い。春の草木の匂い。夏のアスファルトの匂い。そして、秋の金木犀の匂い。
一日の時間帯で言えば、町中に漂う、夕方6時の夕飯を支度する匂いと、8時頃のお風呂の匂いが大好きだ。
もちろん、自分の嗅覚が敏感であるために、嫌なことも少なくない。なぜなら、嫌いな匂いもあるからだ。私は、コーンスープが大の苦手で、電車内で缶のコーンスープを飲んでいる人がいるときは、車両を移動するほどである。それから、元彼と同じ匂いの人。街ですれ違った人がたまたま、彼と同じ柔軟剤を使っているか何かで、同じ匂いを発していると、当時の記憶が自動的によみがえる。それは、言うまでもなく、厄介なことなのだ。
一人で歩くと意識が匂いに集中し、脳内に違う景色が映し出される
世間は随分前から、コーヒーブームで、最近はコーヒーマニアがよくいるようだ。マニアでなくとも、コーヒーが好きで、その香りを好む人たちは多いだろう。そして、私も例外ではない。しかし、私が好きなコーヒーの香りはカフェで抽出しているコーヒーの香りでも、豆本来の香りでも、はたまた、飛行機などの乗り物内に漂うインスタントコーヒーの匂いでもなく、朝食のコーヒーの匂いなのである。コーヒー単体が生み出す匂いよりも、焼き立てのトーストと、卵やソーセージと一緒に出される、コーヒーの香り。あの匂いを嗅いだ時ほど幸せだ、と感じるときはないと思う。
街には本当に数多くの匂いが漂っていて、その一つ一つに反応する私の鼻は、様々な思い出や情景に連れて行ってくれる、いわば魔法のようなものなのだ。一人で歩いているときは、なおさら意識が匂いに集中するようで、脳内には違う景色が映し出される。明日はどんな匂いと出会うのだろう。どんな香りと再会するのだろう。そんなことを考えながら、今日も自分の布団の、親しんだ匂いに包まれながら眠りにつく。