息を吸い込む。よく冷えた風、薄くなった青い空。陽の光が肌を包む。
ああ、もう秋だなあ、なんて。好きな季節がやってきてワクワクすると同時に、ほの暗い影が忍び寄る。

落ちたケータイをひろう手は震えているし、心臓の鼓動は速く息苦しい

当たり前の日常は、いつだって綱渡り状態なのかもしれない。
秋から冬にうつろう季節。高校卒業も近い。私は就活ついでに休みをとり、実家に帰省していた。
そんな頃だった。あのメールが届いたのは。

「○○くんが死んだ」
片思いの人がいた。唯一弱みを見せることのできる友達がいた。言葉にはできない不思議な繋がりを感じる関係だった。
何度も彼に助けられた。本当に、大切な人だった。
そんな、人が、死んだ?
よくドラマなんかで、近しい人の訃報を受けてケータイを落とす場面があるが、自分があれと同じことをするとは思ってもいなかった。人は本当に驚くと手の力が抜けるのかもしれない。

どうしよう、どうすればいい。信じる?信じない?いや、きっとこれは事実で現実なんだ。
いま私が生きているこの世界に、彼はもういない。
落ちたケータイをひろう手は震えているし、心臓の鼓動は速くなりすぎて息苦しい。それでも、やるべきことはやらなければ。今の私にできることはなんだ。考えろ。

町の光を見つめて、ふと気付いた。そういえば、まだ泣いてない

大切な人が死んだというのに、随分と冷静なんだな、私は。
そんなことを頭の片隅で思いながら、すぐ友達に連絡を取った。彼の訃報に、教室ではすすり泣く声と、戸惑いと、行き場のない怒りやらで溢れているらしい。なんともカオスな状況だ。それも当然か。彼は騒ぐようなタイプではなかったが、その落ち着いた雰囲気で、男女ともに人気があったから。

実家でひとりこの訃報を聞いている私は、周囲の負の感情から離れた場所にいるおかげか、わりと冷静だった。
ならばやることはひとつ。悲しんでいる人たちの心に寄り添って、少しでも苦しみを和らげてあげよう。
私は泣くことを後回しにした。後ろめたさからそうしたのだ。その正体から目をそらしたいが為に。
思い付く限りの人に連絡をした。話を聞き、相槌を打って……。
気がつけば日が暮れていた。

どこか、景色のいいところに行こう。なんだかひどく疲れた。
上着に袖を通し、ちょっと出掛けてくる、と母親に伝えて家を出た。とぼとぼ夜道を歩きながら、鼻をすんと鳴らす。漁港に近い町は、塩と魚の混じった独特の匂いがする。死骸の匂いだ。
坂道をしばらく上り、誰もいない駐車場に入った。隅っこに腰をおろし、はあ、と息を吐いた。トンネルの真上にあるここは意外と眺めがいい。たまに通りがかかる車の音が響いて、どこかに消えていく。
しばらく町の光を見つめて、ふと気付いた。
そういえば、まだ泣いてない。
もういいだろうか、泣いても。
瞼に手を乗せて目を瞑る。浮かぶのは、彼と過ごした日々。景色と、感情と、温もりと。

悲劇のヒロインみたく感傷に浸ることなど、許されない

違う、ちがう。ごめんなさい。そうじゃないんだ。
本当は知っていた。彼が抱えていた闇を。誰にも言えなかったであろうそれを、ぽつりと漏らした言葉を私は知っていた。それなのに。
私はそこに踏み込むのが怖かった。もし、彼に向けて伸ばした手を振り払われたら。嫌われてしまったら。
彼に恋心を伝えたことがあった。好きです、という言葉のあとにすぐ「君は私を恋愛感情を通して見ないだろうけど」「これからも友達としてよろしくね」と付け足した。否定されるのが怖かったから。
彼は少し驚いたような顔をしたが、ひと呼吸分の間を置いてから「うん」といつもの穏やかな笑顔で頷いた。
友達としてよろしくね、じゃねえよ馬鹿野郎。恋心が消せなくて、ずっと好きで、だからあのとき、嫌われることを恐れて手を伸ばせなかったんだ。
どうして好意を捨てなかったんだ。感情のバロメーターを友情に振り切っていたら、助けられたんじゃないのか。

柵にもたれ掛かる。うう、とか、ああ、とか。なんともいえない絞った嗚咽のようなものが喉から漏れた。
これは綺麗な思い出なんかにできない。大切な人を失った私、みたいな、そんな悲劇のヒロインみたく感傷に浸ることなど許されない。許さない。

もう近場に漁港などないのに、独特の生臭さがふと甦る

見殺しにしたんだ、お前が、私が。もしもあのとき、彼に救いの手を伸ばしていたら。拒絶されようが、嫌われようが、それでもただ一言「生きろ!」と伝えていられたら。
いいじゃないか、嫌われたって。彼がこの世界のどこかで幸せに暮らしていれば。私のことなんかそのうち忘れて、大人になって、仕事終わりに酒とツマミで晩酌しながらのんびりテレビでも見たりなんてして。

17歳で生涯を閉じた彼は、もうそんなこともできない。
ごめんなさい、ごめんなさい。
君に嫌われるのが怖くて、君の手を取ることを躊躇ってしまった。
でも、きっと彼は私を許してしまうのだろう。優しい人だから。いつものように笑いながら。
だからこそ、私は覚えたまま生きる必要がある。声を押し殺して泣いた。涙は枯れることなく流れ続けた。ぼやけて二重に見える光を見下ろしながら、その景色を目に焼き付けた。
彼が死んだこの日を、今の私が見ている、感じている全てを絶対に忘れるな。
二度と、同じ間違いを犯すな。

あれから歳をとり、かつて住んでいた土地からも離れ普通に暮らしている。まあ何かと慌ただしかったり、波乱万丈なことは多々あったが、それでも死なずに生きているのだから、日常を生きていることに変わりはない。

外に出て、息を吸う。
目を瞑ると思い出す。点々としたぼやけた光を。冷たい風と、頬を伝う涙も、息苦しさも、心に穴が空いた感覚も。次の日、当然のように太陽が昇ってきたことの虚しさも。

秋の冷たい風の中に、独特の生臭さがふと甦る。もう近場に漁港などないというのに。
キンモクセイの香りに満たされる日がくるのか、私にはまだ分からない。