ある日を境に、
「苦労の見える手だね」
と、言われるようになった。
飲食業勤務者として、避けては通れない手洗いアルコールによる乾燥のせいかと思っていたけれど、仕事を離れても、爪を長く伸ばして可愛くネイルをしても、色んな人が私の手を見ては、
「苦労の見える手だね」
と言っては撫でるのだ。
けれどもし、人から苦労の多い可哀想な手だと思われていたとしても、私は私の手が大好きだ。

私の手は沢山の笑顔を作ることが出来る、魔法の種になる

カフェ店員という職業柄ラテアートをすることがある。
ウサギやクマちゃんなどの可愛いものから、リーフやハートなど人に合わせて作り替えるが、その度にお客さんたちは、
「うわぁ、かわいい」
と、言ってくれる。
その時ばかりは何だか魔法使いになった気がして、すごく鼻高々になる。
常連さんたちには定期的にメッセージカードを渡したり、始めてくるお客さんにはカップにメッセージを添えたりしているが、そのリアクションもまた最高だ。
仕事中私の手は笑顔を生み出す魔法の種となる。

みんなの優しさや、温かい愛情を受け取ることが出来る私の手

私はかなり冷え性だ。
そのうえ冬になると乾燥でボロボロ。見るからに可哀想な手だ。
それを知っているからこそ、友人や家族は、
「今日も手が冷たいねぇ」
と、会うたびに手をさすってくれたり、
「仕事頑張ってるんだね」
とハンドクリームを塗ってくれたりする。

そうやってみんなの優しさを、みんなの温かさを、直接感じ取ることが出来るから、こんなボロボロで痛々しい手も悪くないなと思う。
みんなの手は本当にいつも温かい。

そして、私の手は小さい。
姉は昔から「ハンバーグみたいで可愛い」と私の手を触っては遊ぶ。
その言葉通り私の手は小さく、誰かと手を繋いでも、手を合わせっこしても、いつも包まれる形になる。
この包まれる安心感が守られている安心感に近く、手を握られると不思議と心が解きほぐれる。

文章で自分を表現する私の伝えたいことは、この手から発信されている

文章を書く、という形で自分を表現する私にとっては、キーボードを打つこの手が、私自身の気持ちや経験を目に見えるものにしてくれている。
文章を打つことは今の私にとって、なくてはならないツールで、歌手が歌で表現し、声を必要としているように、私は文章で表現し、この手を必要としている。

私の思いも伝えたいことも、嬉しいも悲しいも、この手から発信されているのである。
加えて趣味で楽器を弾く際、ピアノやバイオリンの音を奏でるのも、この手である。
細く流れるようなメロディも、荒く心揺さぶるような音もこの手によって生み出され、音楽となる。

こんな理由から、私は私の手が大好きだ。
多少苦労してたっていいじゃないか。
こんなにも人から幸せを受け取れる手なんて、すごく幸せなやつだ。
この手は私の心であり、口であり、私自身。
こんな素敵な手を私は誇りに思う。