高音の耳鳴りと鼓動を落ちつけたくて、深く長く煙草を吸った
聴力検査をしている訳ではないのに高音の耳鳴りは止まず、恋している訳でもないのに胸のドキドキが止まらない。
「今から十分間の休憩にします」と言われた瞬間、ほぼ全員が立ち上がり、非常階段に置かれた小さな赤いバケツの周りに集まる。ニコチンがないとやって行けなくなった喫煙者達に紛れている私もまた同様にニコチンを求め、深く長く煙草を吸い込むと、二時間吸っていなかっただけなのにヤニクラに見舞われ非常階段の手すりをギュッと握った。
「大丈夫?」そう聞いてくる同僚に「なにが?」と冷たく言い放ち、根元まで吸った煙草を赤いバケツに投げ入れる。ジュっと火が消える音がして、黄色く濁ったバケツの水からは嫌な臭いが上がって来た。
会議室に戻ると統括部長がこちらに近づいて来るのが分かり、少し落ち着いていたドキドキが再加速し始めた。顔を近づけて耳打ちをしてくる。
「あ、さっきのパフォーマンスだから」
そうニヤリと笑って自分の席に戻る統括部長を静かに眺める。何も声が出なかった。自分の鼓動だけが、高音の耳鳴りと共に身体に響いた。
面接で憧れた統括部長は、「パフォーマンス」のために私を怒鳴る
先ほどの会議中、全員の前で長机を何度も殴りながら私に怒鳴りまくっていた統括部長は、中卒、アルバイトからここまで登り詰めたと、ことあるごとに武勇伝を語り、だからこの会社には夢があるのだと、ブラック企業の典型のような話しを何度もする人だった。
入社前の面接でその話を聞いた私は、イキイキとそんなことを話す統括部長に少なからず憧れてしまった。夢があるのだと思ってしまった。
入社してから3年経った今となっては、少しでも憧れてしまった自分が信じられない。褒めて伸ばすタイプがこの世に存在しているなんて都市伝説だ、と思わせる力を持っている統括部長に恋しているからドキドキが止まらない訳ではなく、ただ、単純に、私は恐怖に縛られていた。
中年男性が多いこの会議で唯一、二十代の女性である私を標的にし続け、毎度怒鳴ってくる統括部長はきっとフェミニズムという言葉を知らない。パフォーマンスのために怒鳴られているらしい私の存在価値はなんなのか。月に一度開催されるこの会議が繰り返されるごとに私のヒットポイントは減っていき、ダメージでそろそろ死ぬかも、くらいには疲弊していた。
崩壊し始めた心。病院から帰ってくると涙が出た
上司に相談したことは、ある。だけど、この会社の先輩イコールすでに洗脳された人たちで、私の相談を誰もが通る道くらいにしか捉えてくれない。
「なるほどね、そういう時期もあるよね」と、嫌々期の子供をあやすように右から左へ受け流す上司。「ムーディー勝山かよ」とか突っ込めたら良かったのに、そんな元気はもうなくて、軽い洗脳と慣れと自己防衛が混ざり始めた私の心は崩壊し始めていた。
「何でしんどいのかな?」
「お仕事?プライベート?」
「ゆっくりでいいからね」
「じゃあお薬出しておくね」
海外ドラマを観ていると皆、簡単に精神科医にかかり、自分の気持ちを打ち明けるけれど、いざ自分が精神科医に行ってみると、自分の気持ちを話すことなんて無理で、何も話さない私に業を煮やしたお医者さんは簡単に鬱だと診断して薬を出してくれた。
暗い部屋に帰宅して、薬をビールで流し込む。煙草を吸って真っ白の天井を眺めていると涙が垂れて来た。こんもり溜まった灰皿に煙草を押し付けるもなかなか火が消えないので、水をかけた。
嫌な臭いが上がって来た。服を脱ぎ捨てて、裸でベッドに潜り目を瞑る。
これ以上現実世界に存在していたくなくて、一秒でも長く眠りたかった。
私の中の黒歴史は、蝉の鳴き声に掻き消されて消えた
翌朝目覚めると、薬の効果もあってか少しだけ力が出た。会社に出社する前にもう一錠飲んで家を出る。出社して上司に辞めますと伝えると、またまたーと茶化された。
若い女性だからそんな態度なんだろ?同年代のおやじが言って来てもまたまたーなんか言えんのか?ふざけんなよ。
そう頭の中で思っていたら、目の前の椅子が蹴り倒されていた。シーンとする事務所の中、私は椅子を蹴って無言で上司を睨みつけていた。
騒ぎを聞きつけた統括部長がやって来て「どうしたの?何かあった?」と、優しく私に聞いて来た。「精神科医かよ、クソが」そう舌打ちをして自分の荷物を纏める。まあまあと宥めてくる上司にイラついて机を思いっきり叩いた音に、また事務所がシーンとする。
「統括部長の真似」とニコやかに言ってみたけれど、誰も笑っていなかった。
荷物が纏まったので「ありがとうございました」と丁寧にお辞儀をして事務所を出る。
ジリジリと蝉の鳴き声がうるさい公園。残暑でべたつく空気の中ベンチに腰掛け、mp3をTwitterにUPする。UPされた音声ファイルを再生すると、鮮明に机を叩く音まで入っていて、明らかに女性軽視な発言で怒鳴りまくる統括部長の声が流れて愉快だった。
愛と憎しみが紙一重なように、憧れから軽蔑への移行も容易い。一度でも憧れてしまったことに吐き気がする。心の中の黒歴史だ。
怒鳴りまくる統括部長の声は蝉の鳴き声に掻き消されてどこか彼方に消えて行き、この会社での歩みを完全に止めた私は、新しい未来へと歩き出せる気がした。
それでも急に会社を飛び出して来た事がまた少し不安になり、二錠追加で薬を飲み込む。煙草を吸いながら増えていくリツイートを確認して根元まで吸った煙草を灰皿に入れる。
黄色く濁った水から上がってくる嫌な臭いには、嫌な思い出もたくさん詰まっていた。もう思い出したくなくて、禁煙を初めて意識する。
同僚から大丈夫?とラインが入っていたので、ブロックしてからトークルームごと削除する。少しべたつく風と共に金木犀の匂いがほのかに香り、夏と憧れと私の生活は、終止符を打った。