今から数年前、大学生の頃に就活をした。
私の感想としては、もう二度とやりたくない、それに尽きる。
だから、転職をしている人を見ると、あの思いを味わいながらよくそんなこと出来るなあと尊敬の念すら抱いてしまう。
別に私のような思いを、就活をした全員がしているわけではないのだが。
今でこそ月日が経ち、もはや思い出と化しているが、当時の私はそれこそ絶望の淵にいた。
なぜかといえば、内定がしばらくもらえなかったからである。

お祈りをされる度、お前はだめだと烙印を押されたような気持ちに

そもそも行きたい業界も特になかった私は、乱れ撃ちのように様々な業界の企業を受けまくった。作家になりたいという本音がありながら、それを貫くことが当時の私には出来なかった。
大学まで出たら、その後は企業に就職、それが自分の頭の中にあった。周りも皆そうだった。だからそれ以外の選択肢がなかった。というか、そこをはみ出す勇気がなかったのだ。
だから黙々と就活を続け、お祈りをされ続けた。
多分、一次選考というか面接で落とされることがほとんどという、ひどいありさまだった。お話にならない。いくらやりたいことがないとはいえ、行きたい企業でもないとはいえ、お祈りをされるとメンタルも少しずつおかしくなってくる。

お前はだめだ、そう社会から烙印を押されているような気持ちになった。
別にそんなことはないのに。また、周りの友達がどんどん就活を終えていくことで、落ち込みに更に拍車がかかった。
人と比べるなと言われてもムリな話だ。多くはないがそれでも少なからず友達がいて、進捗だって耳に入ってくるのだから。
真夏の日差しが降り注ぐその間際まで、私は真っ黒のスーツを着続けた。

受験の先に待ち受けていた就活の面接は、勉強のようにはいかない

ここまで就活が長引いたのには理由がある。それは面接だ。
幾度の受験の先に待ち受けていた就活の面接は、勉強のようにはいかなかった。
勉強というのは、極端な話、合格点をとればいいのだ。どの問題を正解しようが合計点がボーダーに届けばいい。
でも面接はそうではない。
私は、元々愛嬌があるわけでもなく、口が上手いわけでもなく、人と親しくなるまでにかなりの時間を要するタイプだ。
性格も決して明るいとはいえず、はきはきともしていない。
どこをとっても、そりゃお祈りされるよね、という要素ばかり持ち合わせていた。

就活中に親と待ち合わせをしていたら言われたのだ。
そんな顔してたらそりゃ受かんないね、と。
ひどい言い方である。でも確固たる事実でもあったのだろう。
自分ではそこまで言われるほどだとは思っていなかったのだ。
家族だからこそ教えてくれることがある。お祈りした企業は落とした理由なんて教えてくれないのだ。それが私を困らせていた。
確かに私の性格的なところに不足はあると思うけれども、それでも企業によって求めるものは違うはずなのに、お祈りされる度に、ただ自分が不正解ということだけが突きつけられる。ただただ辛かった。
結局二社内定をもらい、真夏を迎える直前に私の就活は終わりを迎えた。

変わらない物事にいらだつのではなく、自分が変わるしかないのだ

自分で言うのもどうかと思うが、自分の良さを就活では、面接で、話すことでしか伝えられないことにもどかしさを感じる。
本当はどんな仕事でも動じずに全うするし、黙々とやるのに、と思うのだ。
でもそれを言葉できちんと伝えられなければ就職することが出来ない。それが悔しかった。
うまく言葉に出来ないけれど、行動で示せる場面というのが、なかなか私が受けた企業の選考にはなかった。大抵の企業はそうだと思う。インターンでもやれば良かったのかもしれないがそれもなんだか違った。
それでも、変わらない物事にいらだつのではなく、自分が変わるしかないのだ。そう思う。世を憂いても仕方がない。
周りに何かを期待する前に自分が動く。変わる。
それがいつだって自分に出来ることなのである。