街でリクルートスーツのフレッシュな姿を見かけるたびに、私は冷ややかな気持ちで、就活という日本の謎の文化について考える。
私のこれまでの人生で最も精神的にきつかった時期を3つ挙げろと言われたら、就活は間違いなくその中の1つに入ると思う。
その理由を考えると、少なくともその先数年間の人生が決まるプレッシャーと、それまでの自分の経験や価値観を容赦なく査定されるストレスと、企業と学生の化かし合いの茶番劇に付き合わされている虚無感、などがあると思う。
人見知り、口下手、馬鹿正直と三拍子揃った私には、面接は苦痛の時間
海外経験もある、有名大学の理系大学院生。見かけの経歴は立派な私だったが、順調な就活からはほど遠かった。
確かに、書類は高確率で通過できた。問題は面接だった。人見知り、口下手、馬鹿正直と三拍子揃った私にとって、面接は苦痛の時間でしかなかった。
一方で、自己アピールが苦手なくせに、本当の自分をわかってほしいという葛藤を抱えていた。「面接のわずかな時間で、私の何がわかるというの」と、そもそもの面接という仕組みの欠陥のせいにすることで、何とか自分を保っていた。
しかし、それによって面接官に気に入られようとする強い動機もなくなり、さらに自己アピールがおざなりになる泥沼にはまっていった。
何通目だろうと、お祈りメールはわずかな自尊心も容赦なく打ち砕いた。立派なのは経歴「だけ」であって、私自身には価値がないんだとひどく落ち込んだ。
嘘は織り込み済みの駆け引きが行われる就活は、茶番にしか見えない
「コミュ障の負け惜しみ」と言われればそれまでだが、当時も今も、就活は茶番であるという考えに変わりはない。
我々学生側から面接官の思惑は知り得ないように、面接官からも学生側の思惑は見えない。互いの嘘が許容されているどころか、ある程度の嘘は織り込み済みで話は進められる。器用な人なら全て計算し尽くして面接を楽々と乗り切るのだろうけれど、その駆け引きが苦手な人だっている。
それに、我々の多くは、正解がない場面でどのように考え、どのように動くかを教わったことがない。上から命じられたことには思考停止で従うように長年教育されてきたくせに、就活では急に主体性や個性を求められ(それも、一様な髪型に一様な服装で)、挙げ句「面接で好印象を与える回答テンプレート」が存在することを茶番と呼ばずに何と呼ぶのだろう。
それでも、一部の企業や学生を除いて、我々は就活というシステムの中で踊らされるしかないのが現状だ。捉えようによっては、これも「思考停止教育」の延長線上なのかもしれない。ただ、偏差値主義・詰め込み主義の学校受験などと異なるのは、自分次第で何だって正解になり得るということだと思う。
自分が輝くための場所を探しに行くんだと胸を弾ませるのか、生活費を得るためにやむなく通らなければならない道だと割り切るのか。就活に挑む心構えだって、自分が納得できる限り、どちらでも正解にすることができる。
「踊らされてみるか」と、斜に構えるくらいがちょうどいいのかも
コロナ禍において、リクルートスーツで街を歩く就活生たちを見ることも少なくなった。それでもそれぞれの場所で、今も学生たちは就活に励んでいるのだろう。
彼らが何を思いながら就活しているかは、私には知る由もない。自分が就活生だった頃、気が滅入るほど思い悩んでいたからこそ、「就活なんて所詮茶番なんだし、お祈りされても気に病まないで」と誰かに軽々しくアドバイスすることはできない。
それでも、生き方が多様化した今、就活は長い人生の中の通過点の一つにすぎないのだと、振り返る立場だから思える。
「一度くらい、踊らされてみるか」
先の見えない就活に心をへし折られてしまう前に、そうやって斜に構えてみるくらいがちょうどいいのではないだろうか。