人生で初めての一目惚れだった。凛々しい顔立ち、ムキムキ過ぎず程良く引き締まった体、堂々たる立ち姿。
その聡明さを示すような目元に心を撃ち抜かれたのは4年前、高校3年生の春のことである。その人のことをもっと知りたくて私は志望大学を決め、大学4年生の現在も彼を生涯追いかける覚悟で進路を選んだ。

2000年前の男性に恋をした。とことん好きになってしまう私

私はたいへん一途な女である。柔軟さに欠けるともいえるかもしれないが、「一度好きになった人、物に執着し続ける」という自分の生来の性格(セレーナ・ゴメスのファン歴とハリー・ポッターのおたく歴は10歳の頃にまで遡る)は、「決めたことはやり通す」という意志の強さにもつながっている気がして結構好きだ。
「変化」「成長」がもてはやされる世の中だが、「続ける」「維持する」というのも実は結構難しい。巷では「好き」という感情は3年で薄れると言うが、好きであり続けるという意志と行動力があれば案外そうでもないものである。
アウグストゥス(ガイウス・ユリウス・カエサル・オクタウィアヌス)それが私の心を奪った名だ。世界史の資料集に小さく載った、授業でも軽く触れられた程度の、かの有名なプリマポルタのその像の写真は、与えられた空間は僅かであってもそのページ全てを代表するような存在感を放っていた。
カエサル、ネロ、カラカラといった名に聞き覚えがある人は多いだろうが、意外とアウグストゥスは知られていないそうなので(宝塚ファンは除く)、簡単に彼の紹介をしよう。
彼は高名なユリウス・カエサルの姪の息子にあたり、カエサルの死後その後継者となって、マルクス・アントニウスとの勢力争いに勝利し古代ローマにおける元首政を構築した、初代ローマ皇帝と呼ばれる人である。

賢明で、大胆で、格好良い彼。彼に一歩でも近づきたくて行動した

顔の次に私が惚れ込んだのは、その政治手腕である。共和政を尊んでいた当時のローマにおいて、王のような独裁的な権力者になる意思があると見なされるのはたいへん危険なことだった(カエサルはそれ故暗殺されたと言われている)。
そこでアウグストゥスは、いきなり皇帝という地位を作るのではなく、国家統治に関する様々な権限を少しずつ自分に集めるという慎重な行動の積み重ねによって、結果的に自分が唯一最大の権力者になるよう仕向けた(その意図の有無については議論の余地があると言われている)のだ。
なんて賢明で、大胆で、格好良い人だろう。なお、前述の像については、彼の姿そのままというよりも、「30歳ごろの壮健な男性」という理想を反映させたプロパガンダ的な部分があると言われているが、私はそれすらも自らのイメージを戦略的に描いていたという意味で魅力的に感じる。
恋する乙女の行動力とは恐ろしいものだ。私は無事志望の大学に進学し、西洋古代史の研究を学ぶゼミに所属している。「好きな人と同じもの、食べたいよね」という思考回路から古代ローマの食事について勉強しており、卒論執筆中だ。
たまにではあるが、再現料理に挑戦することもある。古代地中海世界の食事は、結構味が濃くて癖があり、好きかと言われればそうでもないのだが、彼に一歩でも近づきたいという気持ちが勝るので食べる。

彼を追い続けるために、進学することに決めた

コロナ禍の前は貯めたアルバイト代で海外旅行にもよく行き、その中でバース、ケルン、イスタンブール、そしてローマなど帝国の遺跡も巡った。働くのはあまり好きではないが、好きな人が生きた地を踏むためと思えば頑張れた。
特にローマを訪れたときは感動もひとしお。街そのものが遺跡であり、道のわきにはアウグストゥスやカエサルの像が立っているのだ。いわゆる「推しとツーショ」し放題である。
唯一の心残りは、彼が埋葬されているアウグストゥス廟が改修工事中で外観を眺めるしかできなかったこと。つい最近、テレコム・イタリアの支援による修復が完了し一般公開されているそうなので、これから書き上げる卒業論文をもって墓参りするのが目下のところ目標だ。
大学4年生にもなると、流石に将来のことを考える。周りの友達は就活して、内定を勝ち取り、大学を去っていく。親しい友人に後白河法皇のことが(恋愛的な意味で)好きだという変わり者がいるが、彼女はだからといって後白河法皇に人生を捧げるわけではなく、来年から社会人になる。
一方、私はアウグストゥスを追い続けるため進学予定だが、こんなトンチキな理由(2000年前の人間への恋)で進路を決めるのは日本広しいえども私くらいだろう。

レールを踏み外したとしても、自分の一途な生き方が好きだ

ぼんやりと、今私はこれまで歩いてきたレールから足を踏み外し始めているんだなと考える。これから先私はきっと、「好き」という感情だけで理性のない決断をする自分の生き方を不安に思うだろう。
同じ歳の友達が就職して、仕事をして、活躍しているのを見て、周りの人が使命感のある動機で研究しているのを見て、自分は本当にこれでいいのか」と悩む日が来るかもしれない。
今だって本当は不安だ。ただでさえ人文学の研究は、その意義を世間になかなか理解してもらえないと聞く。そんな中で、こんな不純な気持ちから研究を志して本当にいいのか、考えないこともない。
だから、3年後、5年後の私が思い出せるようにここに文章にして残しておきたい。
それでも私は、自分の一途な生き方が好きだと。
不純であろうが、心のままに突き進む私を、今私は自慢できると。