私には後悔という後悔がない。
いつだって全力で、やりたいことをやりたいだけやってきた。
経済的には苦しかったけれど、大学にも進学した。大学を卒業しても、しばらくフリーターでいろんな世界で仕事をした。今は心を一つに決めて、一か所で正社員として働いている。

その時に一番良いと思った道を突っ走ってきた私は、後悔に縁遠い

私は、いつ死んでも未練なく成仏できる自信がある。それくらい、後悔というものに縁遠い。
全力でやった結果が過去なのだから、それ以上良い過去はないだろうと思う。その時に一番良いと思った道を突っ走ってきた。時にはこけて、しばらくうずくまっていた時期もあるけれど、その時期さえもエネルギーをチャージする重要な時期だったと思っている。
どの瞬間の私も、「そうありたい自分」でいた。そして、その根底にある私は「小説家としての私」がある。

全力でやるのはしんどい。妥協なく、自分を奮い立たせて、常に目標を更新し続ける。
そう考えると、「小説家である私」というのは、自慢できる私であるし、生涯の目標である。

小説を書く私。「小説家」としてプロになれたかというとそうではない

私は小説を書いている。そう言うと、たいていの人は何のジャンルを書いているのかと問うてくる。
私はそれに答えることができない。大衆文学のように、多くの人に受け入れられるものではないと思う。ごく少数の人に、えぐるように刺さるような、ニッチな小説であると思う。それがなんというジャンルになるのか、私には分からない。

分からないジャンルを書き続けることに、不安はない。むしろ「書きたいこと」を書きたいままに書いているのだから、楽しささえある。
私は、私にしか書けない小説を書く。もちろん、読者に配慮する部分はある。けれども根本的な部分では、私が思うままに書くことが一番面白い。

じゃあ、小説家としてプロになれたかというと、そうではない。
私の同期は小説家になったが、私はとんと目が出ない。先を越されたことが悔しくて、悔しくて、寝られない夜だってある。私はプロになりたい。プロになれば、みんなから「書いててもいいよ」と承認されるからだ。

こんなに素晴らしい小説家はいないだろう。私は私を自慢する

趣味の範囲である限り、書くことを続けるのは難しくなってくるだろう。
もし結婚して、出産して育児となったら、自分の時間はない。一人で生きていくとしても、仕事の責任が増えれば、諦めなければならないときもでてくるかもしれない。女性である限り、家庭におさまることを世間から求められる時がくるかもしれない。
そんなときに、胸を張って小説を書いていたいのだ。小説家の小木京として、一人の人間として立っていたい。

書いて、公募に出して、落選して。また書いて、公募に出して、落選する。小説を書く隙間で社会生活をしている。そういう生活をかれこれ五年くらいやっているが、まだ芽はでない。才能ないのかなあと落ち込むこともあるけれど、それ以上に小説家としての私が強いからやめられない。

生活に足る収入と、心を潤す読書や写真撮影があって、私らしくあれる執筆がある。これ以上に満ち足りた生活はないだろう。これでプロデビューできたら完璧だ。
たゆまぬ努力と、高い目標と、手に届く生活がそろっているから、私は私を自慢する。
どうだ、こんなに素晴らしい小説家・小木京はいないだろう、と。