私には夢がある。キング牧師のように世界規模の大きな夢ではないけれど。私にとっては、途方もなく大きな夢が。
本を書きたい。幼い頃からずっと、本に自分の名前が刻まれることに恋い焦がれていた。

「本は世界を広げてくれる」。そんな読書好きな両親に育てられたが

きっと読書好きな両親の影響だろう。家にはいつも、小説も漫画も、エッセイ集も、学術書もたくさんあった。だから本を読むことは別に珍しいことなんかではなかった。日常に溶け込んでいた、と言っても良いかもしれない。
母は倹約家だったが、本だけは「欲しい」と言えばすぐに買ってくれた。たとえ、小説でも漫画でも。
「本は世界を広げてくれるから。それが漫画だって、ラノベだって」
それが母の口癖だった。
そういう環境で育ったからだと思う。気がついたときには、本を書きたいという途方もない願いが胸の中で燻っていた。
正直、本ならなんでもよかった。小説でも、論文でも、エッセイでも。本当になんでも。立つ鳥跡を濁さずというが、むしろ私は濁したかった。そこに、自分がいた形跡を遺したかったのかもしれない。
最初は子どもの真似事で。作法も何もなっていない小説っぽいものを自由帳に書いた。
でも、私は覚えている限り、文章を褒められたことはない。現代文の成績は良かったが、それとこれとは別問題だったようで。
むしろ、過去を振り返れば貶された覚えしかない。

書いた文章は「ヘタクソだ」「おもしろくない」と、ほめられたことがなかった

高校三年生のとき、国語の担当教員から担任の先生を介して、「小論文がヘタクソだ」と言われた。何がダメなのかと尋ねれば、理由も告げられぬまま「ヘタクソだ」ともう一回言われた。
大学四年生。卒論の口頭試問の際、主査を務めた教授から「君の文章は優等生すぎて、おもしろみに欠けるんだよね」と言われた。副査の先生も同意見だったのか、何もアクションをしなかった。教授は続けて、「若いのに、君っておもしろくないね」と言葉を重ねた。
それから、これまた大学四年生のとき。大学院進学に際する入学試験の二次試験の面接の場で、口頭試問のときとは別の教授から、「あなたの言葉遣いって、気持ち悪いんだよね。はっきり言って、ワードセンスないよ」と言われた。
面接室にはほかにも数人の先生がいたが、その言葉を否定する人はなかった。ほかの先生方も、同じように思われていたのかもしれない。
それでも、私は諦めようと思わなかった。

それでも書き続けた。努力すれば必ず報われる世界ではないと知りつつ

小学校や中学校ではもちろん、そんなことを言われてからも。高校でも大学でも、大学院に進学してからも。暇を見つけては小説を書いた。公募ガイドを漁っては、新人賞に応募した。そのうちweb小説が流行り始めてからは、小説サイトに投稿もし始めた。
もちろん、そんなに甘い世界ではない。通った作品なんてひとつもない。
それでも、続けた。
努力すれば報われるなんていうことが絵空事なのは、もうとっくの昔に知っていた。
それでも。
貶されても、敵わなくとも、夢に向けて挑戦し続けていること。
これが私の自慢だ。

そして。
つい先日、とある方からTwitterにDMが来た。私が投稿した一節を、アンソロジー収録したいという内容だった。
たった一節。正確に言えば、十文字。それでも飛び上がるほどに嬉しかった。
たったそれだけだろ、と言う人もあるかもしれない。私もそう思う。
それでも、確かにこれは私にとって、夢の欠片だ。
私には夢がある。
それはきっと途方もない夢だ。
その夢を腐らずに追い続けていること。それが私の自慢。