ここ1年、病院勤務だと言うと「偉いですね」「大変ですね」と返されることが増えた。
そのたびに、「いえ、そんな」と曖昧に笑って返しながら戸惑ってしまう。
なにも偉くないし、わたし自身はなにも変わっていないというのに。

憧れ続けたリハビリの仕事に就いて、もう2回目の冬を越えた。
右も左も分からずにただ楽しい!すごい!本当に働いている!と目をキラキラさせていた去年より、大変なことは増えた。それでも相変わらずわたしは、自分のスクラブの裾を引っ張る度にすこしだけニヤリとしてしまう。私服より着ている時間の増えた、いつでもときめく青。

患者さんたちは皆、わたしに出会わない人生のほうが幸せだったはず

「我々は人の不幸で飯を食う仕事」

入職したての頃に課長から言われたその言葉を、今でも強く覚えている。脳梗塞、クモ膜下出血、心筋梗塞。いつのまにか聞き慣れてしまった単語は、誰かの人生にとって大きな大きな不幸だ。命こそ取り留めたものの、その方々は何かを失ってわたしたちに出会う。

想像してみる。
明日はこうしよう、あれもしなきゃ、と考えながら眠りにつき、目が覚めたら体が自由に動かせなくなっていることを。伝えたい言葉が思うように出てこなくなっていることを。それは深い悲しみであり憤りであり絶望であり、その気持ちを同じ痛みとして捉えることは絶対にできない。

わたしが出会い、心を傾けたいと思う大切な患者さんたちは、わたしたちに出会わない人生のほうが絶対に幸せだったのだ。それでも出会ってしまったからには、絶対にすこしでも幸せになってほしい。そんなことを、おもう。

「ねえ、ほんとうにコロナって流行ってるの?」

このご時世でいわゆる「医療崩壊」なる単語が叫ばれるようになっても、良くも悪くもほとんどわたしの職場は変わらなかった。
もちろん、面会や退院後の生活を見据えて行っていたリハビリに制限はできた。不自由なことや制約もある。けれど、それでも、受け入れ病院からすれば些細なことだ。どれほど現場が逼迫していて、最前線の方々が日々戦ってくださっているかは分かっている。
でも、だからこそわたしたちは自分のいる場所を変わらず守るしかないのだ。

「ねえ、ほんとうにコロナって流行ってるの?」

わたしの手を撫でながら聞く患者さんに、自分の手を重ねる。ちいさくて細くて、それでいて重ねた年月と同じだけ皺のある、美しい手。
基本的に病院の周り以外は行けなくなってしまったから、長い入院生活を送る方々は、今のご時世を知らない。夏に軒並み花火大会が中止になったことも、オリンピックが延期になったことも、まるで信じていない。彼女たちが見つめる世界が本物で、実はわたしたちが長くて悪い夢を見ているだけならいいのに。

どんなに世の中が慌ただしくとも、ここで誰かの手を握っていたい

「ここを出たらね、一人旅なんかしたいなと思うの。新潟とか福井とかね、お酒と蟹が美味しいでしょう」
「それは素敵。そのためには、今が頑張りどきですね」
そうねえ、と言いながら変わらずわたしの手を握るその手が、いつか望む空気に触れてほしい。美味しい日本酒が揺れるお猪口や、溢れるほどに身が詰まった蟹を持つ日が来てほしい。

たとえこれがわたしのエゴだとしても、偽善だとしても。慌ただしく世の中が変わりゆくなかでも、変わらずここで誰かの手を握っていたいから。  

だからわたしは今日も病室にお邪魔しては声をかけてカーテンをめくり、リハビリへお誘いに上がる。