手っ取り早く、自己アピールできるものは実に都合がいい。
いわゆる「プロフィール」というものに私が耽溺してしまうのも、そのせいだろう。

その「プロフィール」いったい誰が書いてるの?

100~200字程度で、その人の嗜好や経歴が記述された「プロフィール」は、あらゆるところで散見される。身近な例でいえば、SNSなどで個人登録する際に、よく記述を求められるものが代表的であろう。そのほか、雑誌やオンライン記事、書籍などに掲載されている、芸能人やタレント、作家など、社会で活躍する人物について、事細かに書かれたものを思い浮かべる。
前者はまぎれもなく、自ら作成したものであろうが、後者においては、自分ではない誰か、
芸能人なら、マネージャーか所属先のプロダクションなどによって、作家なら編集者によって、その時期に見合った内容にアップデートされているように思う。

では、その中間となりうる人物は、一般人以上著名人以下の人間は、どうだろうか?
たとえば経営者や団体の代表を務める人材は、プロフィールをどんなふうに作成しているのか?
それっぽく言っているけれど、プロフィールなんて、わりとどうでもいいことを考えている背景は、あるときから自分が提出を求められる頻度が増えてきたことによる。

書き足すネタが増えていくにつれ、翻弄されていく自分

何かの間違いで(と、自分では思っている)、2年前にNHKの「クローズアップ現代+」に出演したことから、大企業や自治体、大学からの講演依頼をいただくようになったり、ウェブメディア等でもインタビュー記事が掲載されるようになった(全国放送メディアの影響力を思い知った)。
当時は、何者でもなかったはずの自分が知らぬ間に何者かになったような、そんな興奮を覚えていた。

そこで、頻繁に求められたのが、例の「プロフィール」だ。
1997年生まれ。立教大学4年生。はじめはそのくらいの属性しか書けなかったはずが、気づけば”Fridays For Future Tokyoオーガナイザー”だとか、”NHK「クローズアップ現代+」出演”だとか、盛んに書き足すネタが増えていった。
それが実績とかいう名のそれなのかもわからぬまま、次第に書き連ねたくなるアレやコレに翻弄されていく自分がいた。

自己顕示欲に支配されているのは、しかし、私だけではないようだった。
私が自分でプロフィールを書いているならば、この学生団体の代表も、このNPOの代表も、等しく彼ら自らが書いているということではないか。

以前は気にも留めていなかった、他人のプロフィールというものの見る目が変わった瞬間だ。

あれもこれも着飾った「プロフィール」自慢。でも外せない抜け出せない

西暦、肩書き、学歴、職歴、活動歴、出演歴、出版歴、メディア掲載実績……。
見事にみんな着飾っている。
公式感漂う文章も、ほとんど自分で書かれたプライベートなものだと思うと(もちろん秘書などが書いたものもあるだろうが)、なんだか妙に彼らがかっこ悪く思えてきた。

自分で自分のことを紹介する。そうであるなら、考えれてみれば、何をそこに記述するのかなんてその人次第であるはずなのに、巷にあふれるプロフィールの多くは、まるで自慢の産物だ。

輝かしい経歴の羅列。列挙。
仮に本人にそんな意図などなかったとしても、そこに記述されてしまっている時点で、きわめて作為的なものを感じてしまう。

私はといえば、そんなおめでたい自分を自覚した上でなお、外せない経歴が山ほどある。
一度はまってしまうと、抜け出せない。プロフィールというものは、沼なのかもしれない。
もちろん、稀に、従来のセオリーによらないプロフィールが集まるサイトもあるが、当該メディア「かがみよかがみ」はその一つであったため、さすがの私も、そのあたりはわきまえている。

”1997年生まれ。立教大学社会学部卒。無類のハリーポッター好き。 小学校3年生の時「アンネの日記」を読んで衝撃を受け、それ以来、毎日、日記を書き続けている。”