静まりかえる電車の中で、「せわしなく動く手」。手話で話す女子高生二人が、寝かけていた車内の人々の目を惹きつけていた。これは私が高校2年生のときの話である。

「いつか必ず兄を超える何かを得たい」。優秀な兄と比較されていた

私には二つ上の優秀な兄がいる。私は彼に勉強も運動も何もかも負けていた。
何かと兄と比較されていたため、小学校にあがる頃には、兄は私にとって憧れの存在でありながら、自分が劣っていると周りに見られてしまう原因の人になっていた。私は兄とは違って、何か群を抜いてできることが1つもなかった。そんな私を自分が1番嫌っていた。
「いつか必ず兄を超える何かを得たい」。そうずっと思って過ごしていた。

そんな私にも中学校の頃、転機が訪れた。私が通っていた中学校には、耳の不自由な子が普通級で生活するために必要な「難聴学級」と、彼らが所属するための「手話部」があった。私は人とは違う部活に入りたいと思い、「手話部」に入部することにした。そう、そこでかけがえのない友人と出会うことになるのである。

手話部の活動に参加し始めると、相手の口を一生懸命見ながら音声日本語で話す耳の不自由の子たちがいた。私はその光景に唖然とした。なぜならば、耳の不自由の子はもうすでに手話を完璧に習っているものだと思っていたからだ。

恐る恐る席に着くと、隣に座っていた女の子が「はいめまいて」(=はじめまして)、そう不明瞭な音声日本語で話しかけてきた。手話ができなかった私はどうすることもできず、ただその子に向かって頭を下げた。

中学で入部した「手話部」で出会った手話とかけがえのない友人

この隣に座っていた女の子こそ、私のかけがえのない友人であり、私と共に静まりかえる車内の人々の目を惹き付けていた相手である。
私は彼女と出会ったときに初めて「聴覚障害」と「手話」に興味を持った。興味を持ったものにハマることには、そう時間はかからなかった。部の活動だけでは足らず、自主的に図書館に行って、それらに関する本を借りて読むようにもなっていた。

部活を始めて1、2年経った頃には、彼女とある程度手話で意思疎通ができるようになっていた。

「上に向けた両手のひらを下に下ろしながら手をすぼめ、開いた親指と人差し指をあごの下で閉じながら下に下げる(=終わって欲しい)」
「両手の人差し指と親指を上に向けて左右に並べ、指同士をくっつけるように開閉する(=そうだね)」

教室の端と端で行なわれたこの手の動きは、私と彼女だけが理解できる会話だった。その会話を見つめる視線はさまざまな感情をもっていた。冷たい眼、憧憬の目、呆れた目、あたたかい目。でも、私はクラスメイトにも兄にもできない「手話」が、「自分にはできる」ということが何よりも嬉しく自慢であったため、どんな感情を持った目も気にはならなかった。

手話ができる。この自慢の事実は私を強くし、自分を好きにさせた

自分を少し好きになるきっかけをくれた彼女とは、中学校を卒業してからも仲が良かった。
高校2年生になった頃、夢の国に行くために朝早く電車に乗った。その電車は眠そうな通勤中のサラリーマンや朝帰りのおじさんで溢れていた。

そのとき私と彼女は音声日本語で話しても良かったのだが、あえて会話手段に手話を選んだ。私と彼女がつながるきっかけになったことば、私が自分を好きになるきっかけになった自慢のことばで堂々と話した。

中学校の教室のときと同じように、いや女子高生二人が朝早くに手をせわしなく動かしているのだからそれ以上だろう、さまざまな感情を持った目がこちらを見ていた。それでも私たちは、私なりの表現方法で言葉を紡ぐことをやめなかった。

誰にでもできることではない「手話」が自分にはできる、この自慢の事実が私を強くした。

「自慢できる物事があるということは、自分を少し好きになるだけではなくて、自分をより一層強くする」ということを伝えたい。
私のように自分に自信が持てない人、周りと少し違うと感じている人には、「ちょっといいじゃん」と思えることを探して自分を好きになって、どんな目にもどんなことにも負けない強さを持って欲しい、私はそう願っている。