中学と高校のとき、最も打ち込んでいたのは部活動だった。暑い夏の空の下で、汗だくになりながら、一生懸命に練習していたことが、今では考えられない。
私は陸上競技部に所属していた。陸上競技といえば、100mなどの走る種目が有名だが、私がやっていたのは投てき種目だった。陸上競技の中でもマイナーであろう投てきを、私は今でも愛している。
陸上競技部に入ろうと思った理由は単純で、自慢ではないが、小学生のころ、足が速かったからだ。では、なぜ走る種目をやらなかったのか。その理由も単純だ。小学校より大きな中学校という集団の中で、私より足の速い人がたくさんいたから。私は走ることに挫折した。
「足の速い」私の存在価値がなくなってきた頃、砲丸投げに出会った
そんな「足の速い」私の存在価値がなくなってきた頃、顧問の先生が「砲丸投げをやってみないか」と声をかけてくださった。「はい」と即答した。
当時の私の砲丸投げの印象は、重い玉を投げる、ということだけだった。その情報の少なさでも即答できたのは、よく知らないことへの好奇心や興味が、不安などを微塵も感じさせないくらいに大きかったからだろう。
また、当時は考えていなかったが、走ることを諦めた心の支えになると、無意識ながら思っていたのかもしれない。
それから私は、「よく知らない砲丸投げ」にずぶずぶとはまっていった。走りたいがために陸上競技部に入ったのに、走るのが億劫になってしまったほどだ。
重い鉄の玉を遠くに投げる。それが砲丸投げだ。ほとんどの人が地味だと思うだろうが、やっている身としては、決してそんなことは思わなかった。より遠くに投げられる投げ方、体の使い方、鍛え方を追求し、それがぴたりと合って砲丸が遠くにとばせたときの嬉しさは、何にも代えがたいものだった。
高校で砲丸投げを挫折をした私を夢中にさせたのは、また投てきの世界
砲丸投げに夢中になり、強くなるための努力をしても、私は強い選手にはなれなかった。身長も才能もなかった私は、県大会に出場することすら叶わなかった。その後悔が背中を押し、中学3年で陸上部を引退して数か月後、私は高校でも陸上を続ける決意をした。
高校に入学して、投てきの世界が広がった。中学では砲丸投げしかなかったのだが、そこにやり投げ、円盤投げ、ハンマー投げが加わった。私はやり投げと円盤投げを新しく始めた。
ハンマー投げをやらなかったのは、単に練習できる設備がなかったからだ。設備があったら、私は投てき種目を制覇していたかもしれない。
中学から高校に階級が上がると、砲丸投げは砲丸の重さが変わる。2.721kgから、4kgになるのだ。私はその重さになかなか対応できなかった。あんなに好きだった砲丸投げが、楽しくなくなってしまったのだ。2度目の挫折だった。
そんな私を救ってくれたのが、やり投げと円盤投げだ。特に、高校2年から始めた円盤投げに、私は夢中になった。回転して投げるという未知の投げ方に、見事に魅了されたのだ。
何度も反復練習をして、円盤をきれいに投げられたときの嬉しさは、砲丸投げに匹敵するものだった。
陸上は青春であり、投てきは達成と挫折を味わったかけがえのないもの
高校3年のとき、私は円盤投げで念願の県大会出場を果たした。最後の最後で夢を叶えることができたのだ。楽しい競技の時間を終えると、清々しい気持ちでいっぱいだった。そして私は、陸上競技部を引退した。今度は、正真正銘の引退だった。
陸上競技から離れて2年が経った。当時はエッセイとして陸上競技のことを綴るなんて、考えもしなかっただろう。このような機会をいただけて、とても嬉しい。
今でも陸上競技の中でも投てきを愛しているし、世界陸上やオリンピックも必ず見ている。陸上競技は、私の青春そのものなのだ。特に砲丸投げは、達成と挫折の両方を味わった、かけがえのないものだ。きっと、これからの人生でもそう経験できるものではないだろう。私を砲丸投げの世界に導いてくださった中学校の顧問の先生には、感謝でいっぱいだ。
陸上競技に向けていた熱を、今は小説に注いでいる。正反対ともいえる2つだろうが、投てきと同じように、小説の世界に魅了されたのだ。そうなった私は、いつくるかわからない最後まで、とことんやりきる。陸上競技を通して、そういう精神を培ったのだ。
いつか、陸上競技の物語を、そして、投てきの物語を書いてみたい。そう夢見て、私は今日も、自分の物語と向き合おうと思う。