親ガチャ、子ガチャ。
誰が言い出したのか、令和3年に出始めた言葉。親や子は選べない、そんな意味だという。まさにその通りだ。お互い選ぶことは出来ない。
しかし、その中でも親は子どもを選ぶことは出来るだろう。性別、障害の有無、少しの事だが選別して産むことの選択をしている。そんな事が親に出来る事ならば子どもも親を選びたいと強く願う。

やり直せるなら、私は親を選び、再びお腹に戻りたいと思ってしまう

私は親の愛を知らない。
親と買い物に行ったこと、ご飯を一緒に食べたこと、そんな世間だと当たり前だと思われている事は1つもした事がないのだ。
毎日何かと言われる日々。何かあれば私が悪い、何かあれば手をあげられる日々。何かあれば外に、廊下で過ごすことを命じられる日々。

何か、それは全て親の都合。誰も私の声には耳を傾けない。親にとって必要のない子であったのは確か。
ならば、いっそのこと、そんな事が頭をよぎる毎日だ。
そこから児童相談所に親が連れて行き、私は施設入所となった。

私が思うのは、やり直せるなら、私は親を選び、再びお腹に戻りたいのだ。
お腹に戻り、世間でいう毒親ではない家庭に産まれ育ち、皆と同じように家族で過ごしてみたいのだ。
どんな事が待っているのだろう。
長期の休みは旅行に行って、買い物にも一緒に行って。リビングで一緒にTVを見て笑う日々。ご飯のお代わりをしても怒られない、早朝の掃除を強制されるわけではない日々。休みの日はゆっくり寝て、習い事して、そんなことを体験してみたいのだ。
ただただ、愛を感じたいのだ。

もし親を選ぶことが出来たら、職場の歯痒さを感じることもなかった

私は今、子どもの施設で働いている。そこでよくこんなワードが出てくる。
「一般家庭のような生活を」「家庭の子は」そんな言葉が飛び交う毎日。
悔しく、歯痒く、わからない自分。なんとなくで答える事や、相手の意見に同調すること。あとはなんとなくの想像で。

人生をやり直せたなら、きっと同じような仕事に就くだろう。そしたら、その子ども達の為にももっと家庭に沿った体験を愛を捧ぐ事が出来るのかもしれない。そんな事を考えてしまうのだ。

親を選べる事が出来たなら、もしかしたらそんな施設さえもないかもしれない。
現代では「養子縁組」「里親制度」そんな子どもと親を繋ぐ制度が充実している。それでも親の愛を知らず命を落とす子、離れて暮らす子、そんな子達が何千人もいることは事実だ。

子が親を選べたら。愛で溢れた日々を過ごせる子どもたちが増えるはず

もし選ぶ事が出来るなら、どこの段階でも、選ぶ事が出来るんだったら、そんなチャンスを親だけではなく子どもにも与えて欲しい。そしたらきっと、愛で溢れたそんな日々を子ども達は過ごして行くのだろう。そしたらきっと、自分も愛せ、家庭を持つ事を諦めず、そんな事が出来る気がするのだ。

そんな事を言っても、残念ながらお腹に戻る事は出来ない。
出来ないからこそ体験できた事もあり、ほかの家庭の子とは違う体験をしてきた。でもやっぱり、ふと、そんな事が頭をよぎる。
親ガチャ。そんなタイムマシーンの様な機械があればなぁーと。
せめて伝えて欲しい。「貴方が産まれて良かった」「貴方を愛してるよ」と。