颯爽と街中を歩く人々。混んだ駅のホーム。電車中に広がる人の熱。車窓に映る様々な人の表情。
まだコロナの「コ」の字も存在しなかった2年前のあの日、わたしは一人のおじさんに出会った。

最後尾が分からないほど人で溢れる駅。帰宅ラッシュを甘く見ていた

あの時、私はまだ大学1年生。大学の講義とサークルを両立しようとてんやわんやしていた。確か、学園祭でサークルの発表があるからと、部員全員で練習をしていたような気がする。
サークルが長引き、乗るはずだった16時の電車に間に合わず、18時過ぎの電車に乗ることになった。「お腹すいたな」とか、「家に着くのは21時くらいかなぁ」とか、多分そんなことを考えていた。
人混みの中を、大好きな音楽を聴きながら悠々と歩き、改札へと向かった。改札を抜け、突き当たりにある右側の階段を登れば、いつも見慣れたのホームが待っている

……と思っていた。

ホームは多くの人で溢れかえり、列の最後尾がどこなのか全く分からない。
しまった。私は都心の帰宅ラッシュを甘く見ていたのだ。いつも通りに16時の電車に乗っていれば、帰宅ラッシュに遭遇することもなかっただろう。次から次へと来る電車も満員で、人が入る隙間さえ見当たらない。
最後尾(らしい場所)で電車を待ち、入れる場所を探すためにうろうろしていた。
漸く、人が入れそうなスペースを見つけ、「ぎゅうぎゅう詰めにしてしまい申し訳ないなぁ……」と思いながら、私は邪魔にならないように、電車のドアの横へ移動した。
出発を合図する音楽が鳴ると、扉が閉まった。
荷物が挟まらないようにぎゅっと抱えた。
その時、後ろから何か大きなものが、私に大きな影を落としていることに気が付いた。

衝撃から私をかばうおじさんから鼻孔をくすぐる匂い。タバコの香りだ

後ろにいたのは身長が190cmくらいあるおじさんだった。黒いスーツにネクタイ姿。いかにもThe サラリーマンという出で立ちで、年はおそらく50代ぐらいだろう。身長が高いからだろうか。つり革を使わずに、荷物棚に掴まっていた。
「こんなに身長が高い人がいるんだ……羨ましいな」
しばらくの間、私は下からそのおじさんを見つめていた。

すると突然、
「急停車します。ご注意ください」
と車内アナウンスがなった。

ドンっという衝撃とけたたましいブレーキの音。多くの人が乗る電車の中、慣性の法則によって一気に人が押し倒されていく。

「あ。つぶされる」
私は思わず身構えた。が、圧迫感は感じなかった。
恐る恐る上を見てみるとあのおじさんが私を覆うようにかばってくれていた。
密着するぐらい近い距離。けれど私をつぶさないようにと気を遣ってくれたのだ。
その時、ふわっと何かが私の鼻孔をくすぐった。

それは、タバコの香り。
つんとするような苦い匂い。でも、決して嫌な匂いではない。
亡くなった祖父が吸っていたタバコと同じ匂い。懐かしい匂いだ。

お礼を言いたいのに言葉が出ない。服には懐かしく優しい匂いが残った

しかし、昔に思いを馳せる間もなく、再び車内アナウンスが響く。
「急ブレーキ失礼いたしました。……次は○○駅です」

私は次の駅で降りなければならなかった。
電車から降りる前に、私はおじさんにお礼を言おうと口を開いた。しかし、「おじさんがかばってくれたのは私の思い違いだ。きっと偶然だろう」と考えてしまい、言葉が出てこなかった。
そんなことを考えているうちに降車駅に着き、電車の扉が開く。
人の波に飲まれるように私は電車から遠ざかる。すでにおじさんの姿は見えない。
電車は人を乗せると、何事もなかったかのように動き出し、ホームから遠ざかっていった。

私はただ呆然と立っていた。「何も言えなかった」と虚無感に包まれてしまった。
でも、私の服にはまだ微かにタバコの匂いが残っていた。懐かしい匂い、そして優しい匂いがした。

その後、コロナウイルスの影響で大学へ行くことも電車に乗る機会も減ってしまった。人の出会いは一期一会。私はもうあのおじさんに、会うことはないのかもしれない。
でもタバコの匂いを嗅ぐと、あの日の出来事を思い出す。
あの人はまだいるのだろうか。
今でもタバコの匂いを纏い、都会の空の下で働いているのだろうか。

緊急事態宣言が解除された10月1日。電車の中で、私はあの日の出来事に思いを馳せていた。