社会人になってから、外で歌い叫んだことがない。
当たり前だろうと自分でも笑ってしまう。そんなこと恥ずかしくてできない。
けれど一体、わたしは外で歌い叫ぶことを、いつから「そんなこと」と言って恥ずかしく思ってしまっているんだろう。これが、大人になったということなのだろうか。
中学3年生の冬、あの時のわたしは、いつも何かに縛られていたけれど、目の前にはとても自由な世界が広がっていたはずなのに。

中学と塾の窮屈な世界から逃げ出したいから、高校という希望を持つ

中学3年の冬、憧れの高校を目指してみんなが必死に勉強していた。わたしも、毎日のように自転車で塾に通って、机にかじりついていた。塾には、同じ悩みや辛さを分かち合う仲間がいて、居心地が良かったのを覚えている。
中学3年生のわたしにとって、中学校と塾、その二つが全ての世界だった。学校のルール、受験のプレッシャー、友達との関係など様々なものがわたしを縛り付けていて、窮屈だった。
本当は、勉強も、学校のルールも、面倒くさい友達も、全てを捨てて逃げ出したい。人生、楽しいことよりも悲しいことの方が多いんじゃないかな?今、一生懸命になる意味はなんだろう?
逃げ出す理由は、たくさん考えることができた。同時に、憧れの高校に行けたら、まるっきり違う明るい未来があるんだという、並々ならぬ希望も抱えていた。この希望を絶やさぬように、いつも必死になっていた気がする。
様々な葛藤を心に抱えながら、静かに冷静に過ごしていた。

土砂降りの中「自転車で帰ろ、せっかくだし」と誘う理由がわからない

あの日、8時ごろに塾を出ると雨が土砂降りだったので、わたしは自転車で帰るのを諦めて、バス乗り場に向かおうとしていた。すると、塾でいつも隣に座る友達が、「自転車で帰ろ、せっかくだし」と誘ってきた。
「せっかくだし」、この言葉の意味をその時には理解できなかった。冬のセーラー服は、一度濡れるとなかなか乾かない。それに受験期だから、風邪をひくのも嫌で、一度は断った。
でも、自転車を塾の前に置いておくのも不安だったから仕方なく、自転車で帰ることにした。

寒くて、寒くて、雨つぶが目に入って視界も悪い。濡れたセーラー服が体に張り付いて冷たくて重くて、漕いでも漕いでもなんだか進まない気がする。
最悪な気分でいると、立ち漕ぎして先を進む友達が、ずっと何かを叫んでいるのが聞こえた。雨の音でほとんど聞こえないけれど、叫んだり歌ったりしていた。
それを後ろから見ていると可笑しくて、わたしも、真似したくなった。

叫ぶように大声で歌う。雨が気持ちをわたしの受け止めて隠してくれた

どうせ誰にも聞こえないからいいや、と割り切って、好きな歌を叫ぶように歌ったり、言葉にならない気持ちを叫んだりした。息が上がって苦しかったけど、車のテールランプや道の電灯が、眩しくてキラキラして綺麗に見えた。
不意に、目頭と鼻がツンと温かくなるのを感じても、泣いているかはわからなかった。土砂降りの雨が、わたしの気持ちを受け止めて隠してくれた。そして、洗い流してくれた。

あの日に戻って、あの感情をもう一度味わいたい。あの日に戻れたら、わたしは今何を叫び、歌うのだろう。
恥ずかしくて叫べないかな。それともまた同じ歌を歌って、言葉にならない声を叫んでしまうかな。今なら、「せっかくだし」という言葉に笑ってうなづける気がする。