憧れという感情は、ある程度は容姿が自分好みであり、かつ、内面が素敵だと思える存在に対して抱くものだと思っていた。
例えば、文武両道で皆から好かれる明るいクラスメイトや、部活動に熱心に取り組む格好良い先輩、頭脳明晰で頼りがいのあるオシャレな社会人の先輩などが、憧れの対象にあたる。

しかし、久々にエッセイを書こうと思い立ち、本テーマについて考えた時、ぱっと脳裏に浮かんだのが高校1年生の時の担任の先生だったので、私は心底驚いた。

それはなぜか。失礼ながら、先生は格好良い/可愛いとは程遠い、ぶくぶくに太った、ダサい眼鏡をかけた中年男性だったからだ。

スーツの似合うイケメン教師を期待した入学式。淡い期待は裏切られた

十数年前、私は中高一貫校に通っていた。高校入学時、私を含むほとんどの生徒がエスカレーター式で同じ系列の高校に入学することに決まっていたので、特に友人関係の心配などはしておらず、また同じようなメンバーで3年間を送るのだな、という軽い気持ちでいた。
ただ、担任教師に関しては話が別だ。

14、5歳のアホな女子高生が入学当日に考えることなど、決まり切っている。
「担任がスーツの似合うイケメンかそうでないか」
これだけなのだ!

迎えた入学式当日、冒頭で述べたように、お世辞にも格好良くてスーツが似合うとは言えない、スーツが今にもはち切れそうな、大変わがままボディの汗っかき中年男性が担任教師として登場し、私の淡い期待は裏切られた。
現実は少女漫画のようにはいかない。

さて、大変失礼ながら、私と同じような淡い(アホな)期待を抱いていたクラスの女子何名かを、意図せずがっかりさせてしまった担任教師だったが、蓋を開けてみると凄い人だった。

先生の担当科目は英語だったのだが、先生の何が凄かったか述べたいと思う。

知識量が膨大で情熱的。外資系企業の営業マンとして働いていた先生

まず、先生の知識量は膨大だった。
先生は生徒からの質問には的確に答え、さらにプラスアルファの情報も付け加えてくれた。情熱が先走るあまりチョークを何度も折ってしまったり、板書してくれる字が壊滅的に読みづらかったりということはあったが、それでも、授業の満足度は高かった。

同じクラスに父親がアメリカ人であり、英語の読み書きが出来るので英語の授業には大して興味がない、とつまらなそうにしていた生徒がいたが、その彼ですら、授業後に先生に質問をしに行く程、授業は画期的だった。

次に、先生は私の知る誰よりも情熱を持っていた。
私達生徒は高校生になると電子辞書を持つことを許されており、もちろん先生側も条件は同じだったはずだが、彼は昔から愛用しているという紙の辞書を毎日持ち歩き、必要に応じてその辞書を引いた。

それは何百回、何千回もめくられたようにボロボロで、所々折れ曲がったり黒く変色したりしていて、先生の過去から現在まで続く努力を示しているように思えた。

最後に、先生は外資系企業での勤務の経験があった。
大学卒業後にすぐに先生にはならず、一生懸命学んだ英語を使い、大変有名な外資系企業に入社し、しばらく海外で営業マンとして働いていたらしい。
たまに話してくれるそんな経験も生徒には真新しいもので、特に、海外への憧れがある生徒の心を鷲掴みにしていた。

英語を勉強して広い世界を見たい。私の人生に影響を与えてくれた先生

そんな授業を通して「自分の知識は持てあます所なく生徒に教えよう」という先生の意気込みのようなものがだんだんと私達生徒に伝わるようになってきて、いつしか私は、入学式で先生の容姿だけ見てがっかりしてしまった自分を恥じるようになった。そして、先生のように英語を勉強して、いつか広い世界を見てみたいと思うようになった。

先生は確実に、私の人生に影響を与えてくれた憧れの人だ。
学生時代に発症した自律神経失調症や、社会人時代に発症した適応障害、自己肯定感の低さなど様々な経験から、一度は英語の学習を辞めてしまった私だけれど、今回このエッセイが、忘れていた憧れを取り戻すきっかけとなった。

いま私は、また英語学習を再開している。憧れの自分になるために。