楽しい行事の後に必ずつきまとう、感想文を書く時間が苦痛だった
宿泊行事、体育祭、文化祭、校外学習、何かの講演会。小さなことも含めると、年がら年中、様々な行事が行われる。
行事自体は楽しいけれど、これらに必ずと言っていいほど付き纏うのは感想文。何が印象に残って、どんなことを感じたのか、振り返って自分の思いや意見を嫌でも書かなければならない。
行事以外にも授業中に読んだ文章、友達が発表したものなど、学校生活では様々な場面で感想が求められる。私はこの時間がとてつもなく苦痛だった。
「感想」あるいは「振り返り」などと書かれた真っ白な紙が前から回される。一言ではダメそうな、余白の大きな紙が。
最後に回収するという趣旨が伝えられ、そこから始まる長い長い沈黙の時間。みんながペンを走らせる音以外は何もしないシーンとした空間で、私はいつも取り残される。
とりあえずクラスと名前だけは書いた用紙を見つめながら、ペンを握りしめ、固まってしまうのが常。
私は自分がどう思ったのか、何を感じたのか、自分のことのはずなのに、どんなに考えてもわからないからだ。正直なところ、何も感じなかったし分からなかった。
変に思われたくない。嫌われたくない。私は自分の感情が分からなかった
回収の時間が近づき、出来事や話された内容のメモを見ながら、苦し紛れに〇〇が印象に残ったと大きな文字でたった一言記入する。それが私の精一杯。
どうしてもしっかりと書かなければならないものは、持ち帰って書いていた。何時間もかけて。
だからその場で感想を書かされ、発表なんてさせられる日には最悪だった。実際、最終日の感想発表が泣きたいほど嫌だからという理由で宿泊行事を休んだこともある。
私は自分で自分の感情がわからなかった。
そうなった理由はおそらく色々。
自分の考えを言って、周りに変に思われるのが嫌だった。嫌われたらどうしようと思っていた。自分の意見を否定されるのが怖かった。相手の求める回答をしなければいけないと思っていた。
だから私は無意識のうちに周りの目を過度に伺い、自分を押し殺していた。そのうちに、自分を見失った。
自分の考えを伝える機会を増やしたおかげで、感情を取り戻せた
それに気づいたのは中学2年生。大好きな部活の仲間からの一言だった。
「りなって辛い時でもいつもニコニコしてるから何考えてるかわからない。もっと感情出しなよ」
そこから始まった私の長い道のり。雑談時に部活のみんなから、「りなはどう思う?」などと話を振られる回数が増え、自分の考えを伝えることが多くなった。
それが結構どうでもいい話題だったのが、かえってよかったのかもしれない。少しずつ慣れていって、もう少ししっかりしたことでも仲間の前でなら言えるようになっていった。
他の場面でも、自分の思ったことを書き出したり、少人数の場で言ってみたりする機会を自分で増やすことをしてみた。
このままでは変われないと思い、単発のオンラインイベントなども色々参加した。
最初は講義形式のものにチャットで一言コメント。少し慣れてきたら少人数の場で少し話をしてみる。そんな感じで小さなハードルを自ら設けて、そのクリアを目指した。
緊張や怖さとも戦いながら、それらを諦めずに何度も何度も重ねた。そうするうちに、少しずつ自分の感情を取り戻していけたように思う。
周囲を気にして自分を押し殺す自分はもういない。今の自分が一番好き
自分の気持ちや心の声に耳を傾け、紙に書き出す。安心できるコミュニティーで、勇気を出して言ってみる。そうやって自分の本当の気持ちを知って、その気持ちに素直になれた今、私は心の充実感や心からのわくわくを感じられている。やりたいことや夢もたくさん出てきて、それを周りの人にも伝えることができている。
最初は恐る恐るだったけれど、周りは私の想像以上に私の考えや思いを肯定してくれた。
「その夢とってもいいね!りなのやりたいこと応援したい!」
そんな嬉しい言葉を色々な人から頂いて、最近はそれを実現すべく色々な活動に没頭できている。わくわくもより一層高まって、私は「今を生きている」という実感がある。
私はそんな今の自分が結構好きだ。
もう周囲を気にしすぎて自分の気持ちを押し殺す、かつての自分はもういない。
いつだって自分の心の声を聞いて、自分の気持ちにとっても素直に、わくわくしながら日々を全力で生きている。
不完全ながらも、わくわくしながら今この瞬間を全力で生きられている今の私は、一番自分らしくて、自慢の私だ。