しばらく、かがみよかがみにエッセイを投稿していなかった。
エッセイを書くために、と購入したワイヤレスキーボードも、ずっと使っていなかった。
タイムラインに流れてくるテーマを横目に、気持ちが溢れてこないことを感じていた。単純に毎日が忙しかった。
9月24日、かがみよかがみ公式LINEからメッセージが入った。
「自慢したいわたし」というテーマでエッセイを募るという。
それを確認したわたしは久しぶりにワイヤレスキーボードの電源をいれて、こうして今、書いている。

このテーマを書こうと思った今、今のわたしを、堂々と自慢したい

まず、ここまでだ。
ここまでのわたしが「自慢したいわたし」である。
このテーマを書こうと思った今、今のわたしを、堂々と自慢したい。

昔のわたしであれば、きっと一番無縁に感じたテーマだった。「わたし」と「自慢」が結びつくことなんて有り得ないとずっと思っていたからだ。

今年の5月、わたしは自分のブログに「決意表明」と記した記事をあげた。そこに自己否定の言葉をやめます、と記した。
わたしの口癖は「わたしなんてたいしたことない」「自分が嫌い」そういった言葉ばかりだった。自らの性格をネガティブ、自己肯定感が低いと称していた。

でも、それが一種の自傷行為だと気づいたのだ。
「わたしなんて」と口にするたびに、求めていたのは「そんなことないよ」の言葉だった。
傷ついている様を見せて、涙をわざと見せて、抱き締めてほしかったのだ。
だけど世の中そうはうまくいかない。わたしだって、友人や恋人に「わたしなんて」と言われたとき、どう支えたらいいか分からなくなる。一度ならまだしも、何度も言われると尚更だ。
この決意表明のきっかけは、その大切な人たちに「その言葉聞くの、つらいよ」と言われたからだった。

自分を見つめなおし、100日間連続でブログを更新して気づいたこと

ブログには続いてこう綴った。今日から100日間、自分を見つめ直しながら、ブログを毎日更新します、と。
念のために言っておくと、わたしはブロガーでも何でもないので、昔からよくしてくれている方が数人、読んでくれているくらいの、ブログである。でも、わたしにとってはれっきとした、決意表明だった。

自分を否定することはやめられなくても、言葉にすることはやめられると思った。声に出すことも、文章にすることも、やめた。頭の中に「自分が全部悪い」という言葉が浮かんで、口に出しそうになった時、この決意表明を思い出して我慢できた。そして我慢した自分を偉いぞ、と誉めた。

あまりに仕事が忙しかった日を除いてではあるが、わたしは100日連続でブログを更新した。どんな夜ご飯を作ったか、とか、2時間散歩してみた、とか、ドラマの感想とか、他愛もないことを綴った。

そして気づいたのは、わたしのネガティブは本質ではなく、癖であったということだ。
自己否定は、癖だった。
わたしの内側から溢れる、どうしようもない、直せないものではなくて、思考回路の癖だった。
口にしなければ、相手からの言葉を待つ必要がない。だから、問いかける相手は自分になった。
そうすると冷静に、「わたしだけが悪いわけじゃなかったな」「失敗もしたけれど、その後すべきことは全部やれたな」と分かるようになった。

二度目の決意表明、もう「わたしなんて」とは言わない

そして、わたしから溢れる言葉は、自己否定の言葉ばかりではないことにも気付いた。
わたしは毎日、「おはようございます」「お疲れさまでした」と笑顔で挨拶していた。大変な仕事を終えた後輩に「今日はよく頑張っていたね」と声をかけていた。家族、友人、恋人とメッセージを交わすとき、いつも最後に「ありがとう」と送っていた。
そしてそれは全部、同じ言葉で返ってきていた。
「おはよう」「お疲れさま」「頑張ってるね」「ありがとう」
たくさん、たくさん、そんな言葉のキャッチボールをしていた。

わたしはそれを、100日間を通してやっと気付いた。
だからもうわたしは、「わたしなんて」とは言わない。なんと、久しぶりのエッセイで「自慢したいわたし」を選ぶことができた。自慢したいわたし、になれたのである。

……と、ここまで書き終わって、少し時が過ぎ10月17日になった。エッセイの締切日である。
相変わらず仕事に忙殺され、たくさんの悩みに明け暮れるうちに、心が弱ってしまったのか、「自慢したいわたし」なんて本当に存在するのか不安になり、投稿する勇気を失いそうになってしまった。何度か泣いた。

でもわたしは、今日このエッセイを編集部に送ることにする。やっぱりわたしは、わたしを自慢したい。自慢してみたい、と思う。「自慢したいわたし」のテーマでエッセイを書けたわたし、になりたい。
もう「わたしなんて」とは言わない、二度目の決意表明として、ここに記しておきたいから。