私は写真が嫌いだった。幼少期こそ何も気にすることなくカメラに向かって笑顔を向けられていたはずが、小学校中学年頃からできなくなった。
写真に写る自分の顔が気に入らなったからだ。笑顔が歪に見えた。
それ以降、カメラを向けられると俯くことや手で顔の一部を隠すことが増えた。

周りが言う「かわいい」が、自身に課す美のハードルを上げていた

中学生の頃がピークだったと思う。修学旅行での写真はほぼ顔の一部を隠していた。生徒全員の写真をなるだけ満遍なく撮影しなければならないカメラマンを困らせ、鬼ごっこまでした。今では笑い話だが当時は本当に嫌だった。

自分で書くのも変な話ではあるが、私は比較的可愛がられて育った。一人っ子であったこと、親戚の中で唯一の子どもであったことが相まって、とにかく「かわいい」という言葉をたくさん浴びて育った。それは今も変わらない。
しかし、そんな温かい言葉が知らず知らずのうちに私自身に課す美のハードルを上げていた。だからなのか、写真に写る自分の姿が許せなくなった。
「もっとかわいく。こんな写真はいらない。かわいくない写真はいらない」
今でこそ薄れてはいるものの、かつて私の心の中にあった言葉たちだ。

私はとにかくかわいいもの、綺麗なものが好きな子どもだった。
断片的に覚えている1、2歳の頃の記憶の中に、母の膝の上に座り「(その顔かわいい)もう一回!」とねだっていた記憶がある。
私はその頃から母親の顔が好きだった。それと同時に整った顔立ちの両親とかわいいとは思えない自分の顔に嫌気がさし、落ち込んだ。

流行のカメラアプリに感じた希望。「かわいい」は自分の手で作れる

そんな私を変えたのは、大流行したカメラアプリの存在だ。
ウサギ、ネコ、可愛らしい動物のフィルターをかけ、画面に映る自分はかわいかった。ここまで読み進めた方の中には、どうせまた加工アプリと実際の顔、その差に絶望するのではないか、と予測する人も多いのではないだろうか。確かにその気持がなかったとは言い切れない。
しかし私はその時それ以上に大きな希望を感じたのだ。

「かわいいは作れる」、加工アプリが教えてくれたのは私が私を救い上げる手段だ。
手始めに最低限しか行っていなかったメイクを見直すことから始めた。母からは毎日のようにメイクに対する指摘が入った。

正直悔しかった。だってその相手は私の好きな顔だから。
でも、だからこそ認めてほしかった。いつかきっと、自分のメイクを認めてもらおうと秘かに胸に誓った。
自分の顔と向き合い、一人では改善が難しい部分はプロの手を借りた。自分に合うもの、似合うもの、そして何より自分に気分が上がるものを探す時間はとても楽しく、満たされる時間だった。

母が私のメイクを見て言った「かわいい」は、特別のように思えた

気づけば初めてメイクをした日から数年が経ち、メイクが上手いと褒めてもらえる機会も増えた。その度に、頑張ってよかった!と飛び跳ねたくなるほどの嬉しさを感じる。そして、母も私のメイクを見て「かわいい」そう褒めてくれた。

かわいいという言葉は自体はこれまでも沢山与えてもらっていたが、その時の「かわいい」は特別だった。
嫌いだった写真は、今も試行錯誤している前向きに努力している最中だ。ヘアメイク、表情、ライティング、これらが上手く合わさると自分の満足できる写真を撮ることが出来る、というのは大きな発見だった。
とにかく撮られ慣れることが重要だということも学び、今では積極的にカメラの前に立つようになった。

ありのままの自分を好きになることは難しい。けれど、好きになる努力はできる。
磨けば光ると信じて努力を続けた結果、私は大きな成功体験を得ることが出来た。
かわいを手に入れ、かわいいの呪いに勝った。1年前よりも今日、昨日よりも今日、私は確かにかわいくなっている。今が最高なのだ。
だから今日も私はメイクをする。鏡の中に映る「かわいい」自分に会うために。
私はかわいい、頑張っている私はもっとかわいい。