「かわいいね」
言われるたび、にっこり笑って空腹だった。おかしな話だと思う。だって私は、ここを目指してきたのだ。
私は、“かわいい子”にずっと憧れていた。

親友の一言で、私は自分を「かわいい」と信じられなくなった

その昔、私は自分をかわいいと信じていた。
太い眉も日焼けした肌も、母からすれば「お雛様のよう、健康的で可愛い」。そんなふうに育ててくれた母のおかげで、私もそう思いこんで生きてこられた。

13歳のあの日を思い出すと、今でも胸がキューッとなる。親友が、うちの家族写真を見て言った一言。

「あたし、咲月だけこのうちの子じゃないと思ってたんだよね。あんただけ顔違うんだもん」たしかに、弟も妹も幼少より「イケメン」「かわいい」ともてはやされてきた。母の声が大きくて、私だけ褒められていないことに気がつかなかった。大量に差しだされたカードが、いっぺんにひっくり返る。「お姉ちゃんは、かわいくないけど」そうか、かわいくなかったのか、私。彼女につられて、私も笑った。無邪気は、見え透いた悪意なんかよりもずっと鋭利だと思った。思いあがっていたと一気に恥ずかしくなり、それからは身の程をわきまえるようになった。

あらゆる期待を絶ち、声高らかにブスを自称し、卑下で友達を励ました。自らかわいくない振る舞いをすることで、容姿との差を埋めて、相手に指摘されることを回避していた。振る舞いも心も、めちゃくちゃに痛かった。

「かわいい」って、どういう意味?私は自分を愛せなくなっていた

高校を卒業してから、脱出方法があることを知った。メイクとおしゃれだ。私は夢中になった。毎晩アイプチをして眠り、メイクを研究し、マッサージやダイエット、肌質改善にも取り組んだ。バイト代はすべてコスメと服につぎ込んだ。

血がにじむわけではないが、涙は何度もにじむ。そういう日を重ねて私はやっと「かわいい」と言われるようになった。冒頭に書いた私を手に入れたのだ。かわいくて、空腹な私を。

この間、写真フォルダを整理していたら昔の写真が目に入り、思わず焦ってスクロールしてしまった。写っていたのは、まだ私が一重の、つまり私が過去に置いてきた“かわいくない自分”だったから。「昔の顔、ブス過ぎて無理」と笑ったら、母が悲しそうに「可愛いのに」とつぶやいた。

ハッとした。たぶん、私もそう思えていたはずだった。あの“呪い”にかけられるまでは。
8年前、暗に「かわいくない」と言われたあの瞬間、私は自分を愛せなくなってしまった。そして、それは今も続いていたのだ。嬉しいはずの「かわいい」に胸が締め付けられて、ずっと空腹だったのは、たぶん過去の私が不憫だと心のどこかで気づいていたからだ。

「可愛い」って自分を愛してあげて、今度こそ抱きしめてあげたい

「かわいい」で得られた自信は、たしかにある。でも、それは他愛であって、自愛と等価交換できるものではなかった。いつのまにか他愛の“かわいい”に囚われ、溺れて、自愛の“可愛い”を置き去りにしたままここまで来てしまったのだった。そのことを10年近くかけてようやく理解した。

最近、昔の写真を見返すようにしている。写真はノーマルカメラで撮り、メイクも少しずつ薄く。せっかく獲得したかわいさを手放すようで怖いけれど、それより今は、あの日置いてきてしまった13歳の私をきちんと抱きしめたいと思うのだ。そして、小さい声でもいいから「可愛い」と言ってあげたい。

まだ私自身昔の私を正視できないし、ましてや他人になんて見せられないけれど。できたらいつか、親友と懐かしくあの頃を振りかえって、彼女にも褒めてもらいたい。

“かわいい”も“可愛い”も抱けるようになった私で、彼女にも褒められたい。
ちゃんと可愛かった、13歳の私を。