「結婚って荷が重い」
これが私の結婚に対する正直な思いだ。

いや、思いだった。

彼氏もいなければ好きな人もいない25歳の私。
そんな私でも一応結婚は気にする。

まわりの同級生の第1次結婚ブームを祝福し、次は第1次ベビーブームの到来を感じる今日この頃。
なぜだろうか、私に結婚願望はない。
どうしても「荷が重い」と感じてしまう。

もし私に今後好きな人ができてその人に、
「結婚を前提にお付き合いしてください」
と言われても、
「や、待ってくださいね。私には結婚ってちょっと荷が重いみたいで。まずは結婚とか考えずに気軽なお付き合いしませんか?」
と言ってしまうと思う。

絶大な安心と同時に感じる不自由さ。結婚って正社員と似ている

私は結婚って正社員と似ているように感じる。

就活、転職活動をしていた時から正社員になったとき。
その不安定な生活から解放される時の安心感は絶大だが、同時に窮屈さを感じてしまう。
それは、今まで自分のリズムで生きてきたのに、社会のリズムで生きなくてはならなくなるからだ。

社会の一員になるということはそういうことだろう。

結婚も、左の薬指に指輪が駐在してくれると決まった時の幸福感と安心感は大きいだろうが、同時に「自分は相手と生涯一心同体」という点に不自由さを感じる。

「結婚するというのは他人と生きていくということなのだから」
と分かってはいるのだが、どうしても窮屈に感じてしまう。

こう書いていると、なんだか私は「人を愛せない女性、結婚してもいつか浮気しそうなヤバイ女」のように見えてしまうが弁解したい。

私は世間一般の結婚観とはズレているだけなのである(お許しを)。

自由は欲しいが好きな人以外は愛せないし、結婚は窮屈だと感じているが生涯好きでいてもいい相手がいることはこの上ない幸せだと思っている。

いつか自分に子供ができたときは子煩悩になると感じている。
自分と好きな人の子供を愛せないわけがない。

ちゃんと私に愛はある。

「お嫁さん」は当然の道ではなく、決意と覚悟、愛のもとに誕生する

「私、お嫁さんになりたい」
そういえば幼稚園の友人が将来の夢についての発表会でそう言っていたことを思い出した。
当時6歳の私は「当然(お嫁さんに)なれる!」と思っていたのだが、今はその友人のことをすごいと思っている。

「お嫁さんになれること」は当然の道ではないからだ。

強い決意と覚悟。
そして大きな愛のもとにお嫁さんは誕生する。
19年の時を経て歪んだ結婚観を持ってしまった私はヒシヒシと感じている。

私が横浜中華街の手相占いで結婚すると言われた23歳はとっくに過ぎ去った。
特段何もなかった。
私の非結婚願望によって手相から線が消えてしまったのか、それとも単に占いが外れたのか。
次は有名な占い師の先生に見てもらうことにする。

私の結婚観はいびつなのだろうか。
サイレントマジョリティーなのだろうか。

私が感じた重さは、結婚を望むからこその「慎重さ」かもしれない

しかし、こう考えられたりはしないだろうか。

「私は誰よりも一番結婚を望んでる人」。それも「最高に幸せな結婚を望んでいる人」。

それゆえ慎重で、どうすれば相手も自分もウィンウィンな結婚ができるだろうかと考えている人。

慎重さが「結婚は不自由だ、窮屈だ」とか変に裏目に出てしまったのだろうか。

「結婚って荷が重い」
これは冒頭にある、私の結婚に対する言葉。

私が重いと感じていたのは「慎重さ」という重みなのかもしれない。

結婚相手にとって自分は、一生を捧げられる人なのか。
相手を幸せにできる人で居られるか。この重みが私に教えてくれたこときっとそれは。

最後に自分に問う。
「結婚、どう思う?」

「結婚?私は、結婚したい。そう思うよ」