彼のあたたかな手が髪から頭へ、そして唇へと伝っていく。ドキドキしてぎゅっと抱きしめしたくなるよりも、彼の香りと温もりに包まれるだけで、その日一日の疲れがどっと出てそのまま胸の中で眠りについてしまうあの瞬間(トキ)が好きだった。

難しいことは何も考えず、好きという気持ちだけで彼に身を委ねる

彼の家に初めて行った日、ここぞとばかりにまるで猫かの様に彼の胸の上を陣取って、自分のモノだけにした。
その時だけは、彼がいつも一緒に寝てる飼い猫を征服したかの様な気持ちになって、こっそりやつ(猫)を見ながら、あっかんべーしてやった。
やつに対して勝ち誇った気でいたけど、やつはあんまり興味なさそうでどうでもいいって顔して部屋から出て行った。
ふん、彼はアタシのもんだかんね!
心地よくターンテーブルによって流れてくる大瀧詠一の曲や、セージの爽やかな香りが、さらに私の心身をより一層解放しくれた。

あの時は、今までと違って恋がどうだとか、愛ってなんだとか難しいことは何も考えず、ただ好きって気持ちだけで、彼にそのまま身を委ねられたことが懐かしくって、初々しくって。
その頃を思い出しちゃって、ただそれだけで、胸が熱くなって目が潤んでしまうことが以前の私にはよくあった。
思い出の中に浸りながら、あの日撫でられた撫で方を再現してみるんだけど、結局やっぱりうまくいかなくなるの分かってるのにやってしまう。
そして、結局落胆するオチをもう何度してきただろうか。
あの日ベッドの上でやり取りした、ゆったりとした時間の中で、私の髪と彼のあたたかな指の交わりは、もうあの日あの時じゃないと味わえないんだよ。

純粋に相手だけを見つめることが出来ただなんて、とても素敵なこと

何も考えず、ただ相手だけを見つめることが出来てたあの日、今考えたら相手に酔いしれると同時に、相手を愛してる自分に酔いしれる心情がさらに新鮮で、こんな自分もあるんだと愛に溺れて働いてない思考でもやんわり"そう"思ったのをかすかに覚えている。
当時、初めて心から好きになったことを、とやかく色々疑ったりしなかったから。純粋にまっすぐ相手だけを見つめることが出来てただなんて、とても素敵なことじゃないの。
今になっては私の胸の中にただひたすらしまい込んでて、時折ふっと思い起こしては脳内で溶けて消えていく。まるで飴玉を口の中で転がし私の唾液と砂糖が混じり合い、のど元を過ぎ体に吸収されると同じ、あの日のmemory。
飴玉じゃなくって溶けないビー玉だったら良いのに、な・ん・て・ね。
以前の私と違い、そんな冗談言えるぐらいまでになったんだから、成長したよね。
それまでの私は、人を本心で好きになるというよりただ相手の中身より相手のスペックに惚れて好きだと錯覚してたのだろう。
相手のことをまるでアクセサリーかの様に……。

満たされない内面を満たしてくれるのは、考えなくても陶酔できる相手

自分のコンプレックスを相手のスペックで満たそうとしてただ無理ばかりしてて、心から身を委ねたいなんてこれっぽちも思ってなかった。
あの日があったから言える、コンプレックスを相手のスペックで埋めようとしても不可能なことなんだよね。
満たされない内面を満たしてくれるのは、何も考えなくても陶酔できる相手なんだと。
表面上だけで人って語れないんだよね。
会話しなくても、ただただ一緒に時間を詠むだけでもね、それだけで心温まるの。
動物が何も話さないでも肩寄せあって揺れてるだけで通じ合ってるじゃない。
一度あの日を知ったから、ヒトを受け入れることが出来、ゆとりを持てるようになったんだと思う。

あの日、あの頃みたいに戻れるなら。
29歳になった今、もう最後の恋になるかもとか色々考えちゃって動けなくなってしまってて、あの時みたいに全身で楽しめた私が羨ましくって、もう一度戻りたいってこの歳になって思うようになってきた。
思い出という名の宝物。