元彼とサンドイッチを作っていた時のこと。
「ゆで卵はフォークで潰すと細かく潰せるよ!」
そう言って彼は私の手からボウルを奪い、ぐちゅぐちゅと細かく卵を潰した。私が口を出す隙もなかった。
その時、私の中にある彼への好意が、同時に潰れていくのを感じた。こんな些細なことで、と自分に驚きながら。

彼が卵を細かく潰す人だから嫌いになったというわけではない

私は我が家の卵サンドが大好きだ。
記憶にはないのだが、サンドイッチに挟む、ゆで卵をマヨネーズで和えたものを幼い私が『たまごくちゅくちゅ』と名付けたらしく(ひどいセンスだと我ながら情けない)、我が家ではずっとそう呼んでいる。土曜日の朝ごはんはサンドイッチと相場が決まっていて、私はたまごくちゅくちゅを作るお手伝いをするのだった。スプーンでざっくりと細かくした程度なので、まだ卵の食感が少し残るそれをパンに挟んでいただく。これが私にとっての当たり前だった。

別に、彼が卵を細かく潰す人だから嫌いになったというわけではない。彼が、私の『文化』を受け入れようとしてくれなかったから、悲しくて嫌だったのだ。「君の家ではそうするんだね。俺の家ではもっと細かくするんだけど、そうしてもいいかな?」とかなんとか、言ってくれたらまた違ったはずだ。
卵を潰されたのをきっかけに、ずっと降り積もっていた違和感がはっきり見えてしまった。

その彼は、一般的には優しくていい男と言えると思う。
年上で、外食はいつも奢ってくれて、電話にはすぐに出てくれて、毎週のようにプランを練ってデートしてくれた。クリスマスには枕元にプレゼントを置いてくれたし、バレンタインは逆チョコをくれた。

「こんなに尽くして貰ってありがたいなぁ」と、最初は無邪気にそう思っていたが、半年経つ頃には、菓子折でもお礼状でも返しようのない、ただもらうばかりの「ありがたみ」がどんどんお荷物になり、なんだか坂道で息切れするように苦しくなっていた。

好きだったわけではなく『優しくするオレ』に酔っていたんだと思う

別れてからふと思い返すと、彼は私を好きだったわけではないと思う。顔がタイプだとは言っていたが、たぶんそれだけだろう。私が何をするにも「普通はそんなことしないよ」とか「人に話したら笑われちゃうよ」とか真っ向から否定してきたし、私の本気の悩みである貧乳を「おっぱい大きくな~れ~」と会うたびにネタにして笑った。私は外食恐怖の傾向があり外食だと吐き気に襲われて嫌だと何度も言ったのに、私の内定祝いだと言ってコースの焼肉に連れて行った。ケンカになるといつも「俺はこんなに色々してあげてるのに!」と私を責めた。

ではなぜ優しい彼氏をしてくれていたのか。
私は彼にとって初めての彼女だった。
もしかして、『彼女に優しくする男らしいオレ』に酔っていたんじゃないか、と思う。
散々尽くしてもらっといてそんな言い方ないだろうと彼は怒りそうだが、そう考えなければ辻褄が合わないというほどに、彼とは共通の趣味もなく価値観も合わなかった。

自己陶酔の道具に使われようとも、彼を責められなかった

しかし、いくら自己陶酔の道具に使われようとも、私は彼を責められなかった。私は彼の気持ちが分かってしまう。私も最初の恋人に、『恋人に尽くす健気な彼女』というエゴを押し付けていたことがあるから。彼がドヤ顔で2000円もしないお会計を払うのを見るたび、前の恋人に手編みの手袋をプレゼントした自分の姿が脳裏をよぎった。彼を切り捨てることは、純真過剰なイタい少女だった過去の私をも否定することになるような気がしたのだ。

結局その彼とは色々な押し付け合いに苦しみながら1年近く付き合ってしまった。

今なら分かる。あの時彼を拒絶していたとしても、私の過去を否定することにはならない。あのイタい乙女チックガールの思い出は、今の私に経験として身につき、糧になっている。乗り越えて少し大人になったのだ。今の私は、今感じている辛さや苦しさに素直になって、少しランクの上がったレディとしての生き様を見せつけてやればいい。

元彼さん。しっかり潰したゆで卵のサンドイッチは私の口に合わなかったけど、あなたにはそれが美味しいんだよね。
どうか、あなたと同じものを美味しく食べて、あなたの優しさを目一杯喜んでくれる女性と、幸せになってください。

振った相手の幸せを願うなんていいご身分ですね。と、イタい私の声がする。