●ヒコロヒーの妄想小説:本日のお題「春」

「幸せにしたいです。結婚してください」

ちらちらと鳴るみたいにして輝く東京タワーがすぐそばに見えるレストランの窓際で、デザートのフロマージュを食べ終えた直後に宏樹さんは冗談のようにリングケースを開いて、そしてやっぱり冗談のような台詞を、冗談とは思えないほど真剣な眼差しで言った。
夜景の綺麗なレストランでプロポーズされること、それを叶えてくれたのは目の前にいる宏樹さんだった。思わず滲むように涙が溢れてきて、けっこん、と、呟くしかできなかった。

つまらなさそうな口ぶりの言葉を受け止めていたら、芸人の彼女になっていた

悠也と出会ったのは7年ほど前、私が社会人になってすぐの頃だった。職場の女性の同僚と三人で新宿の安い居酒屋で飲んでいた時、隣のテーブルで数人で飲んでいたのが悠也だった。小さく不安定なテーブルを隔てても若い男女に自然と会話が発生するには十分すぎるほどにその店は狭く、背が高く猫背で流行に無頓着そうな服装と伸びっぱなしの黒い髪を纏った悠也は、口数は少ないけれど笑った顔が幼く見え、帰りがけにつまらなさそうに「連絡先おしえてよ」と言われた時には、まあ別にいいか、という程度だった。

「おれ芸人やってんねん」

初めて二人きりで食事に行った日、彼はやや恐縮したように、しかしどこかふてぶてしく、そう私に伝えてきたけれど、やっぱりなにかつまらなさそうにそう言い放つものだから、私は取り立てて反応をしてはいけないような気になってしまい、へえ、そうなんだ、と、声色を変えず淡白に呟くのみだった。
それから数回食事に行ったのちに私たちはすらすらと恋人同士と名乗るようになり、私は悠也が出演しているライブを見に新宿の小さな劇場まで同僚と赴いては、面白いのか面白くないのかよくわからない彼の漫才を眺めたり、悠也の「先輩」なる風変わりで声の大きい人たちに彼女だと紹介されたり、ほどなくして一緒に住みだしてから深夜のコンビニのアルバイトに向かう悠也を妙な時間に送り出したり、二人きりで過ごそうと言っていた休日を「ネタ合わせ入ったわ」と断られたりする以外は、何の変哲もない恋人同士だった、ように思う。

ドラマチックな彼の日常。一緒にいることが楽しくて大切だった

悠也は口数は多くないけれど、家に帰ってくれば色んなことをいつも話してくれていた。みんなに隠れてハゲを止める薬を飲む先輩芸人の話、酔うといつも絶対に安室ちゃんのネバーエンドを歌う同期の芸人の話、頼りないけど優しい事務所のマネージャーの話、一般社会でOLとして働く私にとって、そうして悠也が過ごすその毎日はとてもドラマチックなことのように感じていた。
私が電話をしながら落書きをする癖を見て「おもんない授業きいてるんか?」などと憮然とした表情で言ってくるたび可笑しかったし、「今日は楽屋でケータリングが出た」と言ってかばんからたくさんのハッピーターンをせっせと出していた姿もまぬけなどろぼうみたいで可笑しかった。
悠也が「賞レース」の「三回戦」に初めて進んだときは一緒になって喜んだし、敗退した時は悠也と同じくらい悔しかった。「オーディション」に受かって深夜のテレビ番組で悠也のコンビが1分間の特技を披露した時は二人でテレビにかじりついたし、たまに「売れてる先輩」に飲みに連れて行ってもらったという話を、意気揚々と聞かせてくれるあの瞬間も、とても楽しかった。
「ノルマ」や「打ち上げ」のせいで悠也はいつもお金はなかったけれど、芸人として活動する悠也がとても好きだったし、一緒にいられることが、いつも、とても楽しくて、大切だった。

同棲しだして四年が経った頃、悠也のコンビは解散した。「賞レース」というもので芳しい結果が出なかったことが原因だと言っていた。それから悠也はピン芸人として「オーディションライブ」というものに出るようになった。私たちは28歳になっていた。

友人たちは変わっていくなか、木造アパートで変わらぬ生活を送る私たちに気づいた


どうして若い頃は平気だったことが年齢を重ねると鈍痛のように響いてくるのだろうか。
周囲の友人達が結婚し出産していくなかで、私たちのデートは相変わらず全品300円の居酒屋に行くことしかなく、悠也は深夜のアルバイトをしなくていいようになる気配すら見えず、一体いつまでこの古い木造のアパートの一階で暮らせば悠也が何かの結果を掴めるのだろうかと考えれば取り留めもなくなった。29歳の私の誕生日の日、悠也がくれたプレゼントは3000円の長財布だった。

「芸人やめてほしいってこと?」
「そういうわけじゃないけど、悠也は私と結婚することとか考えてくれてないの?」

キッチンの換気扇の下でいい匂いのしないたばこを吸っている悠也を見つめて、言葉を選びながらそう言った。

「考えてるよ。結婚するんやったら里奈しかおらんと思ってるわ」
「じゃあいつになるの?」
「それは分からんやん」
「わからんって、私もう23歳じゃないんだよ。29歳なんだよ。いつまで悠也の夢が叶うの待てばいいの?」
「…しらんわ」
「私だって普通に結婚したいし、子どもだってほしいのに、それよりも悠也が芸人としての夢を掴むほうが大事?私の夢はどうなるの?」
「しらん」
「舟木さんみたいに37歳になってもまだ夜勤続けながらオーディションライブ受けるの?ああなるの?」
「舟木さん今関係ないやろ」
「あるよ、結局悠也は今のままでいいって思ってるんだよ。今のまま何も変わらなければいいなってそう思ってるんだよ。変わることが怖いんだよ、売れたいなんて思ってないじゃん、思ってたらもっと、」
「お前に何がわかんねん」
「わかんないよ、わかんないけど、私だって夜景が見えるレストランとか行きたいし、流行ってるお店とか行きたいのに、いつまでも行けないじゃん。いつ行けたことがあった?いつ連れてってくれたことがあった?いつまで私は私を犠牲にしなきゃいけないの?全部悠也のためにって我慢してきたのに、悠也はずっと自分のことしか考えてなくて、虚しくなるんだよ。ライブでウケたとかスベッたとかもうどうでもいい、もうずっとどうでもよかった、私って悠也にとってなんなの?私が我慢してることってなんなの?私が悠也に」
「俺がお前に何か頼んだことあるんか」

一緒にいることが幸せなのに、一緒に生きていくにはどうすべきかわからなかった

そう言って悠也はコートを羽織って大袈裟にドアの音を立ててから家を出て行った。私はべちゃべちゃに濡れた頬を拭っても拭っても、まだ涙が止まることはなかった。
こんなことが言いたかったんじゃなかった。私も悠也と一緒にいられることが一番幸せなはずなのに、どうして一緒にいるとこんなにも疲れてしまうのか分からなかった。どうして数年前は気にならなかったことが、ひとつひとつ、悲しさを孕んで私のもとに落ちてくるのだろう。悠也とこれからも一緒に生きていくためにはどうすればいいのか分からず、私さえ我慢し続ければそのいつかは訪れるのだろうかと考えて鎮めようとしても、自分の夢のためなら私が我慢することを何とも思わないような人と一緒にいていいのだろうかという疑問に変わって沸騰し返すだけだった。
もう考えることも疲れて、分からなくなってしまい、夜勤に行く悠也もライブに行く悠也も以前のように送り出せなくなってしまってから一ヶ月ほど後で私は家を出て行った。そしてそれから悠也と連絡をとることはなかった。

長すぎた春、という言葉が、いつまでも頭の隅に文鎮のようにしてずっとそこにあった。もうあんな風にくだらないことでふざけあったり、笑いあったりするような人には出会えない気がして、お金がなくても悠也と過ごす時間が楽しくて幸せだった事実は、彼から離れた自分を劈きそうになる瞬間もあった。どういう選択をしていれば良かったのだろうかと泣きたくなる日だって、悠也がどうかは分からないけれど、私には、たくさん、あった。同じように悠也もそう思ってくれていればいいけれど、よりを戻したところで私たちの問題が解決されるわけではないことだって、30歳になることを控えた私には分かっていた。

「大丈夫」と言ってくれる彼を前に、流れる理由のわからない涙が溢れた

「里奈ちゃん、大丈夫?」

目の前で宏樹さんが心配そうな表情で覗きこんでいる。悠也と別れてから付き合いだした宏樹さんとの恋愛に、この一年ほどなんの不満もなかった。ずっと欲しかったものだった。安定した普通の社会人の恋人も、夜景の綺麗なレストランでの食事も、結婚しようという言葉も、ずっと心待ちにしていた。
なのにどうして、悠也がこれを言ってくれなかったんだろうかと、これを叶えてくれるのが悠也だったならと、そんなことを一瞬でも考えてしまうのだろうか。欲しかったものが揃った瞬間に、幸福のありかが明確になるなんてばかげている。宏樹さんのことがとても大事なことは嘘じゃなく、愛する恋人であることも、数分後に私は頷いていることも、そう言ってくれたことがとても嬉しいことだって明白なのに、シルバーリングを見つめながらも、生ぬるい風を浴びていた時代のにおいは鼻をかすめていく。

「ごめんなさい、嬉しくて」
「大丈夫だよ。里奈ちゃん、幸せにします」

宏樹さんはそう言って微笑んで、私はまた胸の奥の方からじわりと何かが滲んでくるのがわかった。長すぎた春は終わった、あの時代は美しかった、あの頃のことを思い出す日があることも本当だ。でもきっとまた新たな春はひらけていて、私はちがう春へくることができたのかもしれないと、宏樹さんの目を見ているとそう思えて、種類のわからない涙がまた溢れてきた。
選ばなかった未来について考えることはもうしたくはないし、するべきではない。私につられたようにして涙ぐむ宏樹さんを見て、私はあの人を大事にできなかったけれど、この人のことは絶対に大事にしようと、この人とあたたかな風をたくさん享受していこうと、覚悟めいた思いで息を整えた。

「宏樹さん、私ね、今すでに幸せです。でも、宏樹さんとだったらもっと幸せになれそうです。よろしくお願いします」