週末は何をしようか。
ひとりで週末を過ごすのは好きだ。
映画館で映画を見よう。本屋で新作を吟味しよう。地元の温泉で疲れを癒そう。ランチはその時の気分で決めて、昼間からお酒を飲むなんて最高だ。初めてお店に入るときは小さな冒険。一日中ベッドでゴロゴロしたっていい。自由気まま、心の赴くままに動く。
ひとり時間の醍醐味は、目の前の「モノ」と一対一で向き合えること
ひとりで過ごすことの醍醐味は、目の前の「モノ」と一対一で向き合えることだ。
例えばご飯を食べるとき、ひとりだと目の前の料理に全集中力を注ぐことができる。料理を目で見て、匂いを感じて、そして味わう。それに加えてお店でかかっている音楽に聴き入り、他の客や店員の行動や会話、表情から生み出す空気感を肌で感じる。まさに五感で楽しむことができる。
映画もひとりで見るときは、作品にとことん没入できる。思いっきり泣き、好きなところで笑う。終わった後は駅まで歩きながら、映画のストーリーや演出、使用された音楽やキャストの演技を思い返して、ああだこうだと考察する。じっくり、ゆっくり作品を咀嚼していくあの時間が好きだ。
注目の対象を100%「モノ」にする。「モノ」と正面から向き合い対話する。「モノ」が発信するメッセージを受け取り、自分の一部にしていくのは楽しい。
もちろん、誰かと時間を過ごすのが嫌と言うことではない。友人や家族と過ごす時間も好きだ。何かを一緒に作業して感想をシェアして。くだらないけど笑いが絶えない雑談をし、時には白熱した議論もする。自分とは違う人生を送り、自分にはない考えをもった人たちから受ける刺激は、自分では与えられない特別なものだ。
ただ、誰かと一緒の時は、目の前の「モノ」は会話をつなぐオプションに変身する。それは目の前の相手、つまり「人」が一番集中すべき対象で、レストランの料理より、相手との会話がメインディッシュになるからだ。それが悪いのではない、意識のベクトルが違うだけ。
ひとりで過ごすという行為は「自分が自分であることを思い出す儀式」
誰かと過ごす時間とひとりで過ごす時間はどちらも大切。ただ私の中でひとりで過ごすという行為は「自分が自分であることを思い出す儀式」のような役割を持っている。
ひとりの時は「何をするか?」を軸に行動する。行きたいところにいき、食べたいものを食べ、やりたいことをする。本能に忠実なある意味動物的な行為かもしれない。
自分のやりたいように過ごしていると、「ああ、私はこう言うものが好きだった」「これが食べたかった」「私に必要だったのはこれだったんだ」と自分が何を求めているか、自分の心の声に気づく。
つまり、ひとりで過ごす時間は目の前の「モノ」と対話していると見せかけて、「モノ」を通じて「自分」と対話しているのだ。
また、ひとりでいるときは、普段仕事や人前で無意識にはめている仮面をそっと外す。ありのままの、ちょっと頼りないけど、やわらかい生身の自分。心の内側に仕舞い込んでいた自分に戻り、心の声に耳を傾け、その声に従い行動に起こし、さまざまな刺激を受け取る。
そうするとだんだんエネルギーがチャージされ、自分の内側が満タンになると「自分はこういう人間だった」と本来の自分が見えてくるのだ。いや違う、昨日の自分より少しパワーアップした自分だ。
心が疲れ、自分が見えないときは、ひとりで自由に過ごすのはいかが?
正直、社会人になるまでは、「週末を楽しみに仕事を頑張る」と言う意味がわからなかった。でも今はわかる。
平日、仕事や人間関係で、知らない間に自分が消耗されていないだろうか。心が疲れていないだろうか。自分がどんな人間か忘れていないだろうか。
そんな時は、週末くらいひとりで自由に過ごすのはいかが?
どう過ごしてもいい。自分に対してはわがままになってもいいじゃないか(もちろん人に迷惑をかけない程度に)。
そうすることで自分の心が生き返り、心に新たな色がつく。それはきっと「生きている」ということだと私は思う。
さ、明日も頑張りますか。