摂食障害を患っていたとき、コンビニはオアシスだった。
大学を卒業し、社会人として働き始めた私は疲弊していた。先の見えない仕事量をこなすためサービス残業をし、休日出勤をする。タイムカードに何十時間という働いた証拠はあれど、それが給与計算に反映されることはない。勤務年月が積み重なるほど増える業務。心身をすり減らす毎日。
自己犠牲を続け疲労困憊。そんな日々で、私はどこかおかしくなった
客観的に見て、私は文句も言わず真面目に働く良い社畜だった。せいぜい、時々上司へ、仕事パンクしてます、と弱々しく伝える程度。
何のために金を稼いで生きているのだろう。自己犠牲を続け疲労困憊で日々を送って、私はどこかおかしくなった。
大量に食べて吐き出す、過食嘔吐。美味しいと感じている瞬間だけ、全てを忘れて幸せ。次から次へと食物をアルコールで流し込み、最後は全部トイレで吐いた。
仕事を終え、帰宅する途中にスーパーで買い物をする。潤沢な資金があればいいが、そんなものはないので安くて量が多い物を探す。美味しいと感じたいという欲求が根底にあるのに、既にずれている。半額になった惣菜、スナック菓子、プライベートブランドの缶酎ハイや発泡酒。この辺りに大変お世話になった。
しかし、スーパーへ日参している訳ではない。残業が伸びて閉店していたり、わずかな自制心を総動員して、今日は過食嘔吐しない、と頑張ったり。そういう日は何事もなく就寝までできればいいけど、難しい。
渇望する自分をいつでも迎え入れてくれる目的地は、アパートからすぐ
自宅の冷蔵庫の前で頭を抱える。扉を開けて中を見る。お茶と味噌と多少の野菜。扉を閉める。そのまま体育座りをして、死んだ目で白い冷蔵庫を見る。腕を伸ばして扉を開け、中身が変わっていないことを確認する。
絶望だ。精神的な空腹を抱える自分と、昇華できない現実と、律せない理性に。
22時。のろのろとコートを羽織り、財布と携帯だけをポケットへ突っ込んで、コンビニへ向かう。幸か不幸か、当時住んでいたアパートは、エントランスを出て信号を渡ると、もう目的地だった。
蛍光灯に照らされた白い空間に、彩度の高い商品が並ぶ。ここは、渇望する自分をいつでも迎え入れてくれる。
いそいそとかごを手に取り、早足で店内をまわる。パン、菓子、冷凍食品。アルコール。めかぶと納豆が切れていたら、それも買う。
スーパーより割高であるが、24時間の安心感に支払っていると思えば問題ない。こうして今日も、一時的な快楽を手に入れた。
今もコンビニはオアシス。でも夜は、もう数年足が遠のいている
トイレの水を流し、涙と鼻水にまみれた顔と汚れた手を洗う。ただでさえ薄給なのに、どうしてこんな虚無しか得られない行為で無駄金を使ってしまうのか。ある意味、賢者タイムのような心持ちでトイレを掃除する。
過食嘔吐をしていたのは2年くらい。その間、どれだけの吐瀉物を生成してきたかわからない。本当、罰当たりと思う。
今は異常な食欲から距離を置くことに成功している。夜のコンビニなんて、もう数年、足が遠のいた。
時々訪れる昼のコンビニでは、気になる新商品のスイーツを2つ3つ買うくらい。入り口でかごを取ることもない。お会計の金額が、千円でお釣りが来ることに慣れてきた。
ティーバッグの紅茶を、コンビニスイーツのお茶請けと共に。お昼寝をする子どもの顔を眺めながら、美味しくいただき、健全に吸収する。忙しい育児のさなか、甘くて美味しいに癒されて、充足した日常を過ごす。あの頃よりまともになった心と身体で。
相も変わらずコンビニはオアシスだが、どこか虚像じみていた白い光はどこかへ行ってしまった。