私は過食をしていた。初めて過食をしたのは小学生のときだ。家でひとりぼっちだった。その当時私は学校でいじめられ、家族関係もあまりうまくいっておらず寂しかったのかもしれない。夕暮れ時、宿題をし終わった後テレビをつけて、冷蔵庫に入っていた余りものを衝動的に食べていった。ほうれん草のおひたし、ウインナーソーセージ、お魚…それでも満たされず、とろけるチーズにケチャップをかけてレンジでチンして食べた。元から食い意地がはっていたのかもしれないが、食べることで心の空虚感が埋まるような気がした。

食べることが支えだったはずなのに、気づけば涙がこぼれていた

過食が本格化したのは一人暮らしを始めてからだった。その当時私は、他人と自分を比べかなり劣等感にさいなまれていた。唯一食べているときが幸せを感じる時間だった。食べることに依存していた。人は食べると、脳からドーパミンが分泌され多幸感を得られるという。実際食べているときの幸福感は何とも言えないほど心地がよく、嫌なことを忘れられ、幸せな気分に浸れた。私は文字通り、食べることで生きていた。食べることで精神的に支えられ、生きてこられた。

しかし、過食は生きることを否定する行為でもある。自分を傷つけているからだ。その罪悪感から自己肯定感がどんどん無くなっていく。時にはお腹いっぱいでこれ以上食べられないのに、泣きながら食べ物を口に運び続けていたこともあった。食べることで支えられ生きていた反面、食べることで苦しみも感じるようになった。とても愚かだった。

私の心を満たすのは「過食」じゃなかった

現在、過食をすることはほぼなくなった。それは食べることだけで支えられていた昔と異なり、今はほかにも私を支えてくれているものがある。趣味であったり、家族や友人の存在だ。私の過食の原因はさみしさや心の満たされなさだと思う。しかし過食で心が満たされることはないと気づいた。むしろ罪悪感から心がすさんでいく。適度な食事であれば心は満たされるが、食事だけに依存すると心は死んでいく。心の拠り所を増やし、食事だけに依存することがなくなるようにすることが大切だ。

母が握ったおにぎりの美味しさ。あの純粋な幸福感を大切にしたい

また、食べることを純粋に楽しみたいという思いも過食をストップさせてくれた。本来食事は美味しさを感じ、楽しみながらするものだと思う。幼少期、母が作ってくれたアツアツのおにぎりがとても美味しかった。美味しすぎて私はなんて幸せなんだろうと感動した記憶がある。あの味は一生忘れられない、幸福感に満たされた食事だった。そういう感動をこれから何度も経験したいと心から思った。過食は美味しさの向こうに苦しみが待っている。食べることで苦しむなんてことはもう二度としたくない、そう強く思った。

自炊をするようになったのも大きなきっかけだったと思う。自炊をすると時間がかかる。過食をしていたころはスーパーで買ってきたお惣菜やお菓子など、手を伸ばせば簡単にすぐ食べられるものが多かった。深く考えずにただ現実逃避するために食事をしていた。しかし今まであれほど簡単に食べていたものは、まず材料を切るところから始まり、煮たり焼いたり炒めたり蒸したり揚げたりといった手の込んだ工程があったことにやっと気がついた。誰かの時間や労力を割いて作ったものであること、命をいただいていたことに改めて気づいた。

過食を経験したからこそ望む、食の楽しみ

食べることで生きることを否定するようなことはもうしたくない。家族や友人と楽しみながら、美味しさを共有しながら食事をしたい。一人で食事をするときも、食材を味わいながら食べたい。食べることで幸福感を得て、エネルギーをもらい楽しく毎日を生きていきたい。過食を経験したからこそ、食事について、自分について深く考え、食事を心から楽しみたいと誰よりも強く願う自分がいる。