幸せな気持ちで頬張った食事より、つらいときにかみしめた食べ物のほうが、記憶に残っているのはなぜだろう。おいしいものには何度も助けられてきた。

私は小学校3年生の時大病を患った。当時はよくわからないまま闘病を続けていたが、大人になって病名を検索してみたら実は命の危険もあったようだ。
当時の私の写真を見ると、体はやせ細り、目ばかりがぎらぎらと大きい。
他の友だちのように元気に生活できない悔しさが常に心の中にあった。毎日服薬しなければならない大量の薬を、「早く元気になりますように」という祈りと一緒に飲み込んでいた。

祖母は数えきれないほど私を迎えに来たが、一度も嫌な顔はしなかった

病気になってからはほとんど学校へ行けず、登校できたとしても教室で倒れることが頻繁にあった。
学校から早退する時は、共働きの両親に代わって、祖母が保健室まで迎えに来てくれた。
運転免許のない祖母はタクシーを頼んで学校まで飛んでくる。いつもはゆったりした祖母だが、おそらく急いで私の元に向かってくれたのだろう。保健室に入ってくる祖母は、毎回息が少し上がっていた。

保健室からタクシーへ向かう間、私は祖母の柔らかい腕をぎゅっとつかんでぴったりくっついて歩いた。痩せて小さかった私は猿の人形のようだったかもしれない。かすかにお線香のにおいがする祖母の腕はいつもあたたかかった。

祖母は数えきれないほど私を迎えに来てくれたが、一度も嫌な顔はしなかった。
今考えると、何度もタクシーで私を迎えにくるのには当然、相当なお金がかかったはずだ。いつ保健室から呼び出しがかかるか分からない状況に心も休まらなかったのではと思う。それなのに、祖母はいつもにこにこしていた。

いつものことなのに、祖母に申し訳ないような、情けないような気持ち

東北の冬は寒い。雪の降るある日、私はまた早退した。祖母とタクシーで学校から帰宅し、私は石油ストーブの前で横になる。祖母は私に毛布をかけ、薬を飲ませる。そして藍色の前掛けをして忙しそうにストーブの上で何やら支度を始める。
祖母の気配が近くにあるだけで、私は安心して、少し眠るのだった。

目を覚ますと「どうだ?」と祖母が心配そうに声をかける。
いつものことなのに、この時私は急に祖母に対して申し訳ないような、情けないような気持ちになった。どうしてか分からないが、学校にきちんと通えない自分は悪い子だと思った。今頃クラスメイトは元気に自分の足で家に帰るのだ。みんなと同じようにできないことが悔しく、この時初めて惨めという気持ちを味わったように思う。
毎日祈りながら薬を飲んでも元気になれない自分が、かわいそうだと思った。
それでも祖母の前では泣くのを我慢した。これ以上祖母を心配させてたまるかと思ったのかもしれない。つーんとする鼻で私は「少し良くなった」と祖母に返事をした。

じんわり口に広がる干し芋の甘みはやさしく、体が喜んでいる気がした

すると祖母は「んだば、これ、少しかじれ」と石油ストーブで焼いた干し芋を差し出してくれた。
手のひらほどもある大きさの楕円形の干し芋をかじると、表面の焼けた部分はカリッとしていて中はねっとりしている。じんわりと口に広がる甘みはやさしく、体が喜んでいるような気がした。
実は干し芋を石油ストーブで焼くのは至難の業で、様子を見ながら何度も裏返さないとおいしく焼くことができない。真面目で辛抱強い祖母は干し芋を焼く名人だった。

程よく焼けた干し芋を食べながら、祖母が私の寝ている間もストーブのそばにいたことに気付いた。目を離さず近くにいてくれたのだ。
祖母は何も言わないが、私が抱えるみじめな思いを分かってくれているような気がした。
静かに見守るということが、私が祖母から受けた最大の愛情だったように思う。

干し芋を大きく一口かじり、幼い胸ではどうしようもできない気持ちと一緒に飲み込んだ。心にやさしい黄色の灯りがともったような気がした。