専業主夫だった父の美味しい料理と、忘れがたいアレンジ料理の味
専業主夫という言葉が世間に広まる少し前から、私の父は40過ぎに会社を辞め、大学院博士課程に進みながら、専業主夫をしていた。
医療関係者として働く母と、炊事掃除洗濯その他の家事を引き受けた父。
そんな逆転現象は、当時の私の周りでは非常に珍しいことで、その稀少さが子供だった私にとって密かな自慢の種だった。
父の料理は不思議だった。凝った料理を作るときは必ず下調べをし、丁寧にレシピ通りに作るのでとても美味しかった。特にカツオを削り出汁から作る煮物は、素材の味を生かしたとても上品な味で絶品だった。
しかし父は、ことに味噌汁やカレーといった日常的な料理となると、我流のアレンジを加え始める。味噌汁で言えば、ピーマン入り味噌汁、きゅうり入り味噌汁、シャンツァイ入り味噌汁。カレーで言えば、キウイ入りカレー、ししゃも入りカレー、柿入りカレー、モツ入りカレー。怖いもの知らずな皆さんはぜひ試してほしい。
特にシャンツァイ入り味噌汁は、食べてから15年経った今でも「あれはすごかったね」と家族で話題になるほどの、奇跡の組み合わせである。
なぜこの組み合わせなのか、なぜレシピを見ないのか、なぜアレンジを加えるのか。
父は「アレンジはクリエイティビティを追求した結果だ」と主張しているが、いつもは美味しい料理を作ってくれるだけに、たまに出るこのアレンジ料理は、私にとって非常に忘れがたい味であった。
潰瘍性大腸炎の診断を受けた私は、食事の楽しみを奪われてしまった
しかし、そんなレシピを見ない父が、唯一繰り返し見ていたレシピ本があった。それは潰瘍性大腸炎患者のためのレシピ本だ。
潰瘍性大腸炎は、直腸から口側に向かって連続性に大腸粘膜に炎症や潰瘍を形成する疾患で、主な症状は、下痢や粘血便、腹痛などを引き起こす病気である。
激しい腹痛と下痢を繰り返し、便器が真っ赤に染まるほどの血便が出たのは、私が小学生の頃だった。医療関係者である母のアドバイスに従い、すぐに病院に行くと、大腸内視鏡検査を受けることになった。激痛の検査を受け、下された診断が直腸型の潰瘍性大腸炎。
1万人に10人程度が発症する難病であった。潰瘍性大腸炎の病状は食べたものに非常に左右される。食べられないものに個人差はあるが、私の場合は、大好きだったキムチなどの香辛料強めのものや刺激物、脂肪分が多い食べ物や食物繊維の多く含まれる野菜や海藻類がダメ。そもそも繊維の多いものもダメ。
大人になってからは、アルコールやコーヒーも摂り過ぎると、すぐにトイレに駆け込むことになる。こってりした味の濃いものが好きな私にとって、一気に食事という楽しみを奪われたようだった。
私のために父が作ってくれた「揚げないコロッケ」が忘れられない
そんな潰瘍性大腸炎を発症して食事が難しくなった私に、当時専業主夫であった父が立ち上がった。低脂質で低刺激、かつ高栄養食を作ろうと研究してくれたのだった。
揚げ物大好きであった私にとって、父が作ってくれたレシピで一番思い出深く忘れられないのが「揚げないコロッケ」である。
油で揚げる通常のコロッケとは違い、フライパンでパン粉をきつね色になるまで、炒める。炒めたパン粉をつけたコロッケ生地を、オーブンで焼くのである。
そんなめんどくさい工程をにこにこしながら作ってくれた父、脂っこさにはかける「揚げないコロッケ」を文句のひとつも言わずに付き合ってくれた、揚げ物がこれまた大好きだった姉弟に感謝しかない。
食べられるものが限られてしまった私にとっても、食事を一緒に摂る・テーブルを囲むということは幸せな思い出を共有することだったのだ。
現在家族メンバーが全員成人した我が家は、夕食づくりは当番制となっている。これから先、自分も結婚し家族を作る中で、私も誰かのために、「揚げないコロッケ」のように、めんどくさくてかつ幸せな料理を作るときが来るのかもしれない。
そのときのために、精々今は腕を磨いておこう。そう、シャンツァイ入り味噌汁以外のもので。