留年。あと1日学校を休めば決まってしまう、その運命。

私は母に連れられ一緒に保健室の裏口まで行ったものの、中には入らなかった。そして、あっさり留年が決まってしまった。あーあ。2年間の学生生活だった。私は高校を退学した。

高校生の私は誰かに否定されて、笑われているような気がして苦しかった

留年が決定するまで、どのくらい学校を休んだんだろう。覚えていないが、だんだん欠席が増えていく私は保健室登校をするようになった。

なぜ保健室なのかというと、クラスのみんなは休みがちの私をどう思うのか、何と言うのか、どんな目で見るのか、それが怖くて教室に入る勇気がなかったから……。そこは人の目を気にしなくて済む、安全な場所だった。

「学校に行きたくない、だけど行かなければならない。他のみんなは毎日しっかり通っているのに私はどうだ? 非常識な人間だ。情けない。情けない。情けない」と休んだ日でも罪悪感から逃げることはできなかった。

みんなと違う私は常に、誰かに存在を否定されたり、笑われたりしているような気がして苦しかった。今でも、この感情が湧いてきて苦しくなる時がある。

私には、その頃の記憶があまり残っていない。自分の醜態を見て惨めな思いをしたくなかったから、今までずっと記憶に蓋をして思い出さないようにしてきたんだろう。きっと図星。

学校を休み続け、終いには退学になった過去なんて人生の恥だ。ただ私という人間のレッテルを下げることしかできないもの。だけど改めて言葉にすると、なんだか虚しくなる。

高校を中退したあの頃の私は、限界までやり切ったとは思えない

家族は私を決して否定しない。いつも優しさで包み込んでくれる。あの頃の話をすると、「限界までやり切ったんだから仕方がない。あの時は無理だったんだよ」とそう諭す。

だけど4年が経った今でも、私はその言葉に反論したくなる。納得いかない。あの頃の私を限界までやり切ったとは言えない。

最後の1日だったあの日、お昼過ぎに学校へ向かった。「やっぱり無理か。今日はやめておく?」と、保健室の裏口前で中に入ろうとしない私に母が言った。「うん」。私は頷いてそう言っただけだった。

その後、車に乗って家に帰った。夕方には担任の先生から電話が掛かってきて、留年が確定したことを知らされた。ああ、決まってしまったか。感じたのは、脱力感だけだった。

退学が決まり家に帰った時、解放感と安堵、自由になれる喜びを感じた

この間に感じたこと、考えたことはどんなものだっただろう。ここからは「あの日の私」に向き合ってみようと思う。

あの日、保健室に入らなければ留年が決定することを知っていて、私は「入らない」を選んだ。その場の雰囲気が「別に入らなくてもいいよ」と言ってくれてるような気がした。

その正体は私の願望だったんだろうな。そもそもこの記憶には自分に都合の良いように、無意識であっても書き換えている部分があると思う。

このまま話を進めても良いのか……。私の話す内容は本当に真実なのか? 分からない。だけど、私の感じたことを真実だと信じて話を続ける。

確か、家に帰っている最中に解放感に似たものを感じた。それは、これから先は家族に迷惑を掛けずに済むため安堵した思いと、学校という柵から自由になれることの喜びから来る感情だった。

学校を拒絶する娘(または孫)を無理矢理にでも行かせようとする母や祖母は、大変だっただろう(この頃の2人は学校に私を行かせるために毎日叱咤していたから(笑))。実はそんな2人に叱られる私も、その頃は辛かった。

一方で事の運びのあまりの速さに、もしかすると留年の期限が今日ではないかもしれない、と考えた。私の思い過ごしだったのかな、と。もちろん、そんな事が通用するわけもなく現実は容赦ないものだった。

こうして向き合うと、記憶は鮮明に蘇ってきた。嬉しいことだけど正直、あまり良い気はしなかった。だけど向き合って発見した事が2つある。

1つは、私は今でも人の目に怖気付いてしまう弱さを持っているということ。もう1つは、この先もずっとこの過去と一緒に生きてゆかなければならないということ。

どうせなら、あの頃の私をギュッと抱きしめられるようになりたいな。面倒臭い私へ、これからもよろしく!