SNSと聞いて何を思い浮かべるだろう。Twitter、Instagram、Facebookなどさまざま。
友達や家族だけに限らず、不特定多数の人と簡単につながることができ、連絡や待ち合わせの約束、自分のことを気軽に発信できる非常に便利なツールだ。
だがしかし、一歩間違えれば犯罪になってしまったり、反対に犯罪に巻き込まれてしまったりと、非常に怖いものでもある。

スマホを持って思った「こんなにも世界って生きづらかったっけ?」

私は高校に入学する頃、周りに流されるように持っていた携帯をガラケーからスマホに買い替えた。
買い替えた当初は、電話とメールの最低限のものを使えれば、それだけでいいと思っていた。
だけど入学してすぐの頃、部活の先輩や友達から言われた。
「LINEやってないの?」
入学した先の部活動の連絡が、全てがラインで行われていたのだ。
学校からの帰りの電車の中で、ふと頭によぎった言葉がある。
「こんなにも世界って生きづらかったっけ……。自分が思うように生きれないことは分かってはいるけれど、私自身がやりたいように、自分が好きなように取捨選択くらいさせてくれないのかな」
周りがやっているから。
ラインの方が連絡が取りやすいから。
そもそも連絡を取ること自体、こんな簡単に連絡が取れるものであっていいのだろうか。
今でも使ってはいるけれど、やっぱりどうしても疑問に思うときがある。

SNSは、全員に好かれようとして自分が疲れてしまうものだと思う

昔は人との連絡手段は手紙。
人との待ち合わせといえば、駅に設置された黒板が使われていた。
昔は今とは違って連絡が取りづらく、画面に表示された文字ではなく、自分で描いた文字が他人を含めて、そのまま相手に伝わってしまうのだ。
手紙に至っては人によると思うが、間違えた文字を消した、その消し跡なんかも相手に伝わってしまう。
ひと昔前のラインは、間違えたものを取り消すなんてことはできなかったが、最近では、間違えたもののメッセージの取り消しなんてことも、あっという間に簡単にできてしまう。
昔と今が違うことといったら、自分が撮った写真をメールに添付して文章と一緒に送るだけでなく、TwitterやInstagram、FacebookなどのSNSを使って、家族や友達だけに限らず、不特定多数の人と自分が楽しかったことなどを「共有する」、そして自分が写っている写真には、加工、フィルター、映え。
そんなことをしてまで自分をアピールして、何がそんなに楽しいのだろうか。
最近のスマホのカメラの性能は、優秀だからそのままでいいのに。
ありのままの姿を受け入れてくれない人は、自分が思っているよりもきっとたくさんいるから。
全員に好かれようとして自分が疲れてしまうくらいなら、そんなことやめてしまえばいいのに。

誰かに奪われる自由ならいらない。自分が生きたい世界線に私はいたい

何をそんなに自分を着飾ってまで、写真を加工してまで、自分じゃない違う誰かになってまで、共有したいのだろうか。
私には到底理解し難いものだ。
この写真きっと加工されてるんだろうな、といつも思う。
「あなたは一体何者で、誰なの?何を伝えたいの?」
私もインスタを始めた当初は、いいねの数に一喜一憂していたけど、遠い昔誰かに言われて、何年経っても私の中から離れない言葉がある。
「あなたはふと思った言葉ほど、誰かを動かす力があると思うから、着飾ったりなんかせずに自分らしくいた方がいい」
ふと画面から目を離した間に、離れてしまうくらいの相手だったらそこで終わりにしたっていいじゃない。
画面から目を離して、一旦深呼吸してみるくらいの時間があったっていいじゃない。
誰かに奪われる自由ならいらない。
それなら、開け放たれた鳥籠の中で一生不自由だと思ったままでいい。
自分が生きたいと思う世界線で、私は私で生きていたい。