いいねがつけば、「これが私の表現」と思うようになった

SNSは、私の中の表現者を少しずつ殺していた。
私は写真を撮ることが好きだった。自分の美しいと思う世界をより美しく切り取ることが好きだった。大好きと大きな声で言えるくらい、好きでいたかった。
SNSは私から、好きという気持ちや表現者としての美学を削り取っていったのだ。

最初はフォトコンテストの息抜きに、お気に入りの写真を公開する場所としてSNSを始めた。半年くらいは、いいねが1つつくだけでも嬉しくて、RTがあるともっと嬉しくて、純粋に私の表現をたくさんの人に見てほしい気持ちで溢れていた。

次第に、いいねの数を気にし始めた。自分が気に入っていたものも、いいねがつかないものはなんとなく価値のないものに思えてきて、気に入っていなくても、いいねがつけばこれが私の表現と思うようになった。
いつのまにか自分の好きを表現する場だったはずのSNSが、他人の好きを表現する場に変わっていたのだ。バズる写真、バズる加工、バズるモチーフ、似たり寄ったりなインスタントな表現に私は没頭した。

SNSでの写真投稿を約1年間休止して、分かったこと

そんなSNS生活を始めて4年目の年末、掃除をしていると1枚のSDカードが出てきた。中身のデータが何かわからなかったのでPCに差し込んでみた。そこには、私が表現したかった世界の写真がたくさん入っていた。
スクロールしていくと、どんどんと好きの詰まった作品たちが画面に表示される。どれを見ても私の大好きな作品たちだった。

それを見ているうちに涙が溢れていた。
この写真は流行らないだろうな、これじゃいいね伸びなさそうと思っている自分のあさましさと、私が今切り取っている世界に美学はあるのだろうかという疑念で私は涙が止まらなくなった。

その日からSNSでの写真投稿を約1年間、休止した。写真が撮れなくなったのだ。SNSにアップロードしなければ私の写真を見てくれる人は1人もいないことに気づき、寂しさや虚しさが心を埋め尽くした。

それと同時に、SNSで公開すると数字で評価がつくことが頭をよぎった。本当に自分が表現したかったものを投稿して、いいねがつかないかもしれないと想像すると怖くてたまらなかった。恐怖で私のシャッターを切る指は止まってしまった。

いいねの数にかかわらず、SNSは私の好きで溢れる場所に

写真ともSNSとも距離を置いた生活をしていたある日、「久しぶり、元気にしてる?最近写真撮ってないの?」と私のもとに1通のDMが届いた。その人はSNSを開設した当初から私の写真を見てくれていた大切なフォロワーさんだった。
私が1年もの間SNSから離れていたのにも関わらず、私の作品を待ってくれている人がいた。そのことに衝撃を受けた。

写真を撮りたい!その衝動でカメラをもって私は家を飛び出した。
フォロワーさんのたった一言で、私の中に渦巻いていた他人の評価に対する恐怖心は消え去った。

久々に撮る写真はすごく心がときめいた。写真ってこんなにも自由でこんなにも楽しいことだったのだと改めて実感した。同じ被写体を何度も何度も自分が納得するまで撮り続けた。
こんなにも真剣に写真と向き合ったのは何年ぶりだろうか、いつからか好きだった写真のことを承認欲求を満たすためだけの道具にしてしまっていた、私は表現者失格だったと反省することができた。

SNSに復帰した今、本当に表現したかった私らしい、私ならではの写真をアップロードしている。いいねやRTに対する通知をすべてオフにした。
どれだけいいねがついても、どれだけいいねがつかなくても、SNSは私のお気に入りの作品、私の表現したい世界、私の好きで溢れる場所にしていきたい。
誰よりも私が私の作品を好きでいられるように、そう願いながら、今日もSNSに作品をアップロードする。