私のひとり暮らし歴は短く、2年と2ヶ月。
3年半前に大学進学とともに上京して、ひとり暮らしをはじめた。
4月の入学式を終えて一緒に部屋へ“帰って”きた両親に、
「10月の従兄の結婚式まで戻らないから!」
と啖呵を切った、2週間後。
夢見た大学生活を得られない現実に打ちのめされた私は、実家へ戻り2泊した。
入学式直後のオリエンテーションでクラスメイトと少し距離ができてしまった私は友達ができず、大都会東京で独りぼっちだった。
両親が、実家が、田舎な土地が、嫌なだけでとにかく逃げたかった
両親からの監視に似た世話焼きや、田舎ならではの車が運転できないとどこにも行けない閉塞感が嫌で嫌で、東京でのひとり暮らしに夢を見ていたのに。
東京は望めばどこにでも行けて、なんでもできるけれど、指針がなければなにも得られないことを知った2週間だった。
私は、両親が、実家が、田舎な土地が、嫌なだけだったのだ。とにかく逃げたかった。18年過ごさざるを得なかった、あの場所から。
ひとり暮らしは逃げる手段でしかなかったのだから、夢も希望も、キラキラしたなにかなんて得られるわけがなかったのだ。
知っているひとのぬくもりを求めて、両親に会うために実家へ戻っていたけれど、そう言うのはプライドが許さなくて「犬に会いたくなっちゃった」と言って戻っていた、はじめの半年。
次の半年は、年末年始を挟んだこともあって短く感じた。
大学生の長い春休みはバイトもせず実家で犬とたわむれる日々だったと思う。あまりにも平凡とした日常だったせいか、記憶が曖昧だ。
2回生になってからは、資格課程の講義が忙しくてあまり実家に戻らなかった。夏休みと年末年始に戻ったくらいだった。
近くのファミレスで始めたフロアのアルバイトを、パワハラで1ヶ月で辞めたりとか色々あったけれど、独り立ちできたかなと思っていた。
2月頭には塾講師のアルバイトに受かった。春休みはバイトに明け暮れるぞと思った矢先。
緊急事態宣言が出た。
緊急事態宣言により実家へ。15万円で夢と自由を受け渡した
大学は休校ののちに全面オンラインになり、「東京にいる意味はなくなったでしょ」と、実家に連れ戻された。アルバイト先の塾も緊急事態宣言の直前から閉まったままで、大学も行けないのだから当然だろう。
家賃は仕方ないけれど生活費はぜったい実家の方が安上がりだからと、2020年3月から実家で過ごしている。
ひとり暮らしの家賃は7万円で生活費も7万円。本代や、専攻である美術史の勉強のために通う美術館の入館料なども出してもらっていたから、月に15万円ほど親の仕送りに頼っていたと思う。
連れ戻された当初は、せっかく確立してきた夢見たひとり暮らしを満喫しているところだったから、かなりしんどかった。
実家に戻って来いという言葉は、8割がた心配する親心だったと思う。残り2割は金銭面だろうが。
でも私は、15万円で夢と自由を受け渡したことを後悔している。
東京へ“帰り”自由の甘美を味わえたのは、“戻る場所”があったから
引越し作業はコロナが落ち着いているだろう9月にと、大家さんに連絡したのが7月。
このまま東京とはさよならかと思っていたけれど、また“帰る”ことが許された。
大学の前期授業が終わった8月から引っ越し前日の9月29日までの2ヶ月間、採用されたまま宙ぶらりんだったアルバイトをやらせてもらえることになったのだ。
アルバイト先の塾から「夏期講習の人手が足りないので来てほしい」と言って頂けて、それならまあ家賃は9月まで発生しているわけだからと、東京で生活してアルバイトをすることを許してもらった。
正真正銘、期間限定の自由だ。
1回生の4月はあんなにも自由をいらないと思っていたのに、一度取り上げられたらやっぱり欲しいという私は、かなりわがままだなあと思う。
それでも、東京へ“帰って来た”気持ちだった。
月15万円で得た自由は、とても甘美だった。
だけど、その甘さを感じられたのは、期間限定だったからだと思う。
“戻る場所”があったから味わえたのだ。
現在私は4回生で、春からは修士課程に進む。オンライン授業が主になっているため、実家暮らしのまま東京の大学院生になる。
抑圧された実家暮らしに文句を言っているけれど、“戻る場所”実家にもう少しだけ居てもいいかなと、思っている。
今は実家近くで家庭教師のアルバイトをして、月15万円の自由代を自分で払えるように、コツコツ貯めているところだ。
“戻る”場所を強固にした私が、いつか指針をもって自由を求めに東京へ“帰る”ことができるように。