金沢出張のお土産でお香を買ってきた。有煙式のスティックタイプ、要は良い匂いのするお線香である。
アロマだのディフューザーだのを日常的に使用していない私がそれを買ってきたのは、全くの気まぐれとしか言いようがない。もしくは心の底ではわかっていたのかもしれない。
今の私の精神状態には、それが必要だと。
誰もいない部屋に漂う煙。「自分以外の存在」がしみた
旅先から帰着したその日から、飽きもせず毎日焚いている。気まぐれで買ってきたものに、こんなにハマるとは思わなかった。
労働からくたびれて帰宅した平日の夜に、平日の緊張から解放されて弛緩しきった休日の夜に、香立てに1本の線香を立て、白檀を香りながらくゆる煙を眺めることが日課となった。
ある日気がついたのは、「私が楽しんでいるのは、その香りだけではない」ということだ。
目に見えない空気の流れに合わせて揺らぐ半透明の白い煙を、永遠に眺めていられるような気がした。線香の火先から生まれた煙ははじめまっすぐ宙へと向かい、少しずつ揺れ始め、たなびき翻り、時に幾股かに分かれたりしながら、やがて中空で薄れ、姿を消す。
ローテーブルに置いた香皿から立ち上る煙がランダムにうごめく様に目を奪われ、ソファの座面に沈みながら、夜の時間は溶けるように過ぎた。
私には線香の煙がとても新鮮に見えたのだ。一人暮らしの狭い部屋の中で、不確かに動き不規則に変化するものが、自分以外に存在している。そのことがかさつきひび割れた心に、クリームのようにしみた。
順調だった一人暮らし。コロナ禍で突然家事ができなくなった
一人暮らし歴は決して短くない。途中で実家に戻ったときもあったけれど、通算ではもう5、6年になる計算だ。
元々早く実家を出たいと思っていた側の人間だ。就職して本格的に実家を離れることが決まったときにはワクワクした。ようやく自分の城が手に入ると思った。一人暮らしは自由を手にすることで、それは何物にも代えがたく素晴らしいと。
その発想が間違っていたとは思わない。けれど最近、私は一人暮らしがしんどくてしょうがない。
一人で全てに向き合うことのしんどさを、実家暮らしのときは知らなかった。一人暮らしを始めてからも、生活が比較的順調だったときはそんなことに思いも至らなかった。
思えば運悪く、生活が崩れる要因が重なったのだ。
新卒で入った会社を3年待たず退職。転職先の職場では不慮の欠員に伴い、研修期間も終わらないうちに配置換えになった。
程なくして訪れたコロナ禍。不都合とプレッシャーだらけの中、初めてのリモートワークで窒息しそうだった。
ある日突然家事ができなくなった。洗い物を放置した。夜にやろう。明日やろう。週末にやろう。結果その洗い物は1年半放置されることになる。
一人で暮らすというのはそういうことだ。私が動かなければ、その場は永遠に何も変わらない。
収拾がつかないまでに荒れた部屋では割と簡単に、全てを嫌になることができた。やる気が失われて何もせず、また自分と全てが嫌になった。悪循環に入った。
「一人は寂しい」。体験してわかったその本当の意味
社会人としてギリギリな日々が続いた。自炊と掃除は諦めても、化粧と洗濯はなんとかこなした。外面は取り繕わなければと思っていた。人目を気にするタイプは、人の目が届かない分野については徹底的に何もしないのだと実感した。
誰かに助けてほしかった。
ここにもう一人いたら、物理的にも心理的にも助け合えるのに。
いや、助けてくれなくてもいい。誰かがここにいてくれさえすれば、私はもっと頑張れる。
ああ、気軽に息抜きがしたい。人と話したい。
ああ、人と住みたい。誰でもいいから、誰かと一緒に暮らしたい。
一人暮らし大賛成派だった私は生活の厳しさを知って、すっかり人との同居推奨派になりかわっている。
いろいろな状況が一つずつ徐々に好転していったおかげで、今はその当時ほど酷い暮らしはしていない。お香を買ってきて焚くくらいの余裕は保たれている。
一人暮らしも悪くない。実家の居心地が悪いなら、なんとか出てみて自由の味を知るのもいい。
ただ一人暮らしでは、生活の中に自分以外誰もいない。自分が何かをしなければ、何も状況が動くことはない。ループにハマったらなかなか断ち切れない。
ペットでも飼わない限り、自分以外に生きものはいない。自分以外に生命の気配がないのは、特にこのコロナ禍では、思いのほか気の滅入ることだった。
「一人は寂しい」
バカみたいに単純で、改めて口にするのも恥ずかしいくらいだけど、実体験するまで全くわかっていなかった。
この弱さにどう立ち向かおう。人と住みたい。できれば心の許せる、支え合える人と一緒に。その願いが叶うまでの間、線香の煙をアクアリウムの魚に見立ててやり過ごそう。
最近いよいよ、線香に火をつけるチャッカマンの小さな炎の揺らぎにも見入ってしまう。