「違う。それじゃ火傷するから、貸して」

 推しは白檀の香りが好きらしい。無印良品でお香を買ってきた私は、愛煙家の父からライターを借りた。

 その小さな歯車を回して火を点ける瞬間はやはり、ヒヤリとする。段々に親指が熱くなっていく。元々ライターを使うのが上手でないのだ。見かねた父は、私の持つそれを奪い、正しい使い方を教えた。

「親指は、垂直にしねぇば。火傷するはんでよ」

 その瞬間、私は生まれてはじめて、火の付け方を教わったと思った。私が火を点けてあげた相手は大勢いる中で、怪我をしない、正しい方法を教えてくれたのは、父ひとりきりだった。

父が仕事を辞めて家計が大ピンチ。お金がない私はアルバイトを始めた

 胸ポケットに手をやったら、あるいはテーブルの上に置かれた箱に手が伸びたら、灰皿を差し出してライターを持つ。火は胸元で焚いてから、客の咥えた口元へと運ぶ。このとき、暗い店内で急に火がつくと眩しいから、左手でそれを覆い隠すようにつけるのがポイント。

 これは大学1年生の時に『ママ』から教わったことだ。

 お金のない、とにかくお金のない大学生の私が目を付けたアルバイトは、酒を作りながらお客さんと1時間会話をする仕事だった。

 はじめての出勤の日、駅ビルで片思いの人を想って買ったワンピースを着ていった(この恋は実らなかった)私を「カワイイ」と褒めてくれたのは、高校の同級生の父親だと1時間話して分かった。ピンク色のハンカチで結露を撫でながらウンウンと頷く私は、なかなかにこの仕事が向いていたと思う。

 この時、私の家は大ピンチを迎えていた。父が無職だったのだ。

 大学受験1ヵ月前、急に仕事を辞めてきた父が寝静まったあと、母は私にこう言った。

「ごめんね、大学なんだけど、地元の国立大学に一度で受かってほしい。無理なら働いてほしい」

 なるほど、なるほど。どうやら進路というのは選ぶものではなく決まっているものなんだなあと思いながら、ぼんやりとセンター試験を受けた。

 受かるべきか、受からぬべきか、心のまとまらないまま勉強をサボって論語を読んで過ごしていたら2次試験の内容がたまたま論語だったので、普通に合格した。

お金を稼がなきゃ。私はお金を貰うために笑いながらウンウンと頷いた

 大学に入っても、心は落ち着かなかった。なるほど、うちにはお金がない。でも、お金を理由にして青春を諦めること、お金で親に迷惑をかけることは絶対に死んでも嫌だって、ヤダヤダ期を迎えた子どものように思っていた。

 お金を稼がなきゃ。

 使命感のようにメラメラ燃えるその気持ちだけを糧に、朝昼晩と働くことにした。

 一応弁解しておくが、学業や部活も同じくらいに懸命にやって、それはもう一日数時間しか眠れぬような日々を過ごしておりました。

 私の住む町はかなしいかな、最低賃金の田舎町だったので、効率良く稼ぐとなるとやはりおじさんとお喋りするのが手っ取り早かった。

 おじさんたちは私に色んなことを教えてくれた。ハイボールは混ぜすぎてはいけないこと、回らない寿司のおいしさ、明け方の飲み屋街のひややかさ、などを。

 その度に彼らはニンマリ笑って、「どうだ、為になっただろう」と言う。私はお金を貰うために、ただニッコリ笑いながらウンウンと頷いた。

「ライターの付け方違ってるよ」付け方を教わった瞬間感じた、父の愛

 彼らはどうしてか、大抵みんな煙草を吸った。私はママに教わった通り、その先端に火を点けた。ぐうっと吸い込むとそこが赤く灯って、それからふうーっと吐き出される白い息を毎日浴びた。

 うちは父が愛煙家だから、苦ではなかった。知らぬ男の咥えたそれを、何本も何本も点けた。お客さんより先につけるゲームのように、ただ、淡々と。

 そんなに沢山点けたのに、今まで一度も「ライターの付け方違ってるよ」と言われたことがなかった。それじゃあ怪我するよ、なんて、誰にも言われなかった。あんなに「カワイイよ」「好きだよ」と言ってきた人たちは、結局のところ私には興味がなかったのね、と思った。

 父は、私がそういう仕事をしていたことを知らない。多分、私の方も墓場まで持って行くことだろう。けれど、ライターの付け方を教わったその瞬間、ほんの少しだけ「言ってしまおうか」と思った。私を愛していることを、かさついた父の親指が物語っていたから。

 白檀のお香は懐かしいけど寂しいような匂いがして、煙がぷかぷか浮かんでは消えていく。

 煙草の代わりに、煙を吸い込んでみた。それはなんだか甘かった。