今、私は夫とともに物件探しをしている。
彼が一軒家やマンションなど好条件の物件をリサーチし、週末になると2人で巡るのが最近のデートコースの定番となりつつある。
でも私は、素敵な未来を提案してくれる彼に色よい返事ができないでいる。

優等生だった私は、中学生の時父から「家を出ていけ」と言われた

この仕事がいつまでできるのか。
子どもは絶対にいらないのか。
2人で何千万もの大金を本当に返していけるのか。
病気になったら? 離婚してしまったら?

精神的に未熟だから、数ある不安を払拭できなくて決めきれないのだと思っていた。
でもここ数ヶ月、その問題と向き合っている中で、自分が決断できないのは、歪な実家暮らしの記憶が根底に流れているからかもしれないと思った。

中学生の時、父親から「家を出て行け」と怒鳴られた。
その足で父は私の部屋のすべての荷物を同じ敷地内に建っている母屋に持って行った。
父と私はずっとうまくいっていなかった。

こう書くと、まるで私が思春期を拗らせている子どもか、手のつけられない問題児だったように思われるかもしれないが、そんなことはない。
寧ろ悪女に憧れていた節すらある、小説好きの優等生タイプだった。
ただ、自己主張しない弟とは対照的に、受け流すことが苦手で言い返す子どもでもあった。

父親は自分で感情のコントロールができなかった。
おまけにプライドが高く、嘘のつけない人でもあった。

気丈な母が泣いているのを見た日。父親のわがままさを痛感した

母は決して父のことを悪く言わない良妻賢母の鑑のような人だった。
だからここからはあくまで私の想像だが、父は職場で衝突が絶えず、ひとつとして同じ環境で長く働けなかった。
こうありたい、こう見られたい自分像と、現実の自分の折り合いがつけられなかったのだろう。

大人の機嫌や顔色を窺えるほど器用ではないが、相手が自分のためを思って怒ってくれているのか、腹の虫の居所が悪くて八つ当たりで激怒しているのかぐらいは中学生にでもわかる。
些細なことで激昂する父と毎日憎しみ合い、嫌悪し合い、ぶつかり合っていた。

社会人として働いている今なら、父のような気性では一般社会に馴染んで働いていくのは困難であるとよくわかる。
けれどその頃の私には、その想像力も父の弱さからくる横暴さを受け止める器もなかった。

「離れて暮らすのは嫌だ。娘を取られるのは嫌だ」と気丈でしっかり者の母が泣いているのをあの時初めて見た。
普段とのあまりの変貌ぶりに、その姿を見ていられなくなったのか、追い出したはずの父が狼狽えて私を呼んで慰めろと命令した。
私は狂ったかのように泣く母を慰めた。

端から見たら実にとんちんかんで滑稽な家族だろう。
女の意見が決して通らない男尊女卑が残っていたステレオタイプの実家は父親の絶対君主制だった。
どんな理不尽もわがままも父親は受け入れられていた。
多分、子どもの頃からそうだったのだろう。

呪縛から逃れて明るい「選択」ができる日は来るのだろうか

突如2階の自分の部屋が孫の荷物で埋まってしまった祖母は祖父と1階で会議を始めた。
耳が遠くなり始めた2人は小声のつもりでも、中学生だった私の耳には階段を下りている途中で内容が丸聞こえだった。
半分くらい下りて、そこからはどうしても下りられなかった。
しばらく泣きながら階段に蹲った後、私は再び2階へ戻った。

祖父と祖母の部屋が統合され、元々祖母の部屋だった場所があてがわれてからも、襖に仕舞われた高価な着物や置かれたままの箪笥に入った夥しい洋服の群れなど、お洒落で粋な祖母の名残はそこかしこに色濃くあった。
出て行く最後のその日まで、私はそこが自分の部屋だとはただの一度も思えなかった。

実家で長らく自分の部屋も居場所もなかった私にとって、マンションやマイホームを購入するなんて身の丈に合わない贅沢だと、どこかで怖じ気づいていたのかもしれない。
その呪縛から逃れて明るい選択ができる日が、夫とならくるのだろうか。