父の誕生日を祝ったことがない。
正確には一度だけある。父に用があって連絡した際、「今日は何の日でしょう」と言い出し、ようやく父の誕生日だと気がついて祝った。
しかし基本的に私は毎年祝い忘れ、年末に会うと「誕生日忘れてたでしょ」と小言を言われる。この話を友人にすると「お父さん可愛いじゃん」と言われるが、それが自分の父親だったらと一度想像してみてほしい。

離れて暮らし習慣を共有していない父は、皿の定位置を知らない

習慣とは、長い時間をかけて培うものだ。
家族の場合、同じ家で生活を共にするので、自然とたくさんの習慣を共有することになる。皿は食器棚の定位置に戻す。脱いだ服は色別にカゴの中に入れる。味噌汁は夕食に出す(一般的に味噌汁は朝食だと知ったときの私の衝撃たるや)。
私の父は、皿の定位置を知らない。適当に置けそうなところに置く。住所を間違えられた皿たちはどこか居心地が悪そうに見える。私たちは、習慣を共有していない。

小さい頃、父親はシフト制だった。土日の10時から18時、父は家で私と兄と時間を過ごす。特に何をするでもなかったけれど、ただ一緒にパスタを食べたり、テレビを見たりしていたと思う。よく覚えていない。
父は私たちの住む一軒家から車で15分ほどのマンションに住んでいた。少し古くて狭い部屋で、冷蔵庫には家庭裁判所への呼び出し状が貼られていた。父は何度か引っ越しを繰り返し、そのたびに部屋は広く、階は高くなっていった。

父がいなくなり、兄は上京し、母は地元へ。家には私だけ残った

私が高校生になる頃、父は飛行機で2時間以上かかる父の地元に引っ越すことになった。祖父母の介護とか、仕事の都合とか、色々あるらしい。
そのことを初めて聞いたとき、「え、やだ」と言葉が口をついたことを覚えている。私、父親がいなくなるの嫌なんだ、と他人事のように思った。やだと言ったところで父親はいなくなったし、私もそれ以上引き止めなかった。

父がいなくなるのと同時に兄は上京し、その2年後には母も祖母の介護のために地元に帰った。この家には私だけが残った。

私にはこの家だけが残った。

今でも、この家には私が一人で住んでいる。いつからか、私が一人でこの家にいるのが正常で通常なのだと、そう考えるようになった。そうやって、私は私の心を守っている。ここは家族で暮らすための家ではなくて、私が暮らすための家だ。

習慣とは、長い時間をかけて培うものだ。私たちは、習慣を共有していない。

この家はもう家族と過ごす場所ではなく、私一人が過ごす場所になった

父は年に数回、1~2週間の休みをとってこの家に帰ってくる。避暑だとかスキーだとか季節ごとに何かと理由をつけているが、半分は私の顔を見にきているのだろう。愛されてるな、と思う。
しかし悲しいことに、私にとってこの家は、もう家族と過ごす場所ではない。私が一人で過ごす場所なのだ。そこに皿のしまい方すら知らない父が我が物顔で帰ってくることが、私は苦痛で仕方ない。
もう無理なんだよ、と思う。私たちが家族っぽいことをするのはもう無理。一緒に暮らすのも、誕生日を毎年祝うのも、もう無理なんだよ。ずっとやってこなかったんだから。それを今更やれって言われたって無理。

私だって、父親の誕生日を毎年盛大に祝えるもんならそうしたいし、そうしたかった。小さい頃からずっと、その機を逃してきたのだ。家族と仲良く暮らせるならそうしたかった。ずっと私から「家族」を奪っておいて、今更一緒に家族をやろうなんて虫が良い話だ。家族がバラバラでも、広い家に一人でも、私は大丈夫だとずっと言い張ってきたのに。

「誕生日忘れてたでしょ」なんて、どのツラ下げて、と思う。私に誕生日を忘れさせたのはそっちだ。

だからお父さん、私は今後もきっと、あなたの誕生日を祝えません。ご理解ください。