私は2022年は「何もしない」と既に決めている。
2021年まで頑張りすぎだったと思うからだ。
行政書士の勉強と本格的な音訳活動の開始。両立はできそうになく
2021年は転職をきっかけに行政書士試験を受けることになったため、1年間ずっと勉強していた。
昨年の宣言では「音訳をやりたい」とこちらのエッセイで書かせていただいたが、行政書士の勉強と本格的な音訳活動の開始の両立はできそうになかったので音訳活動を諦めたのである。いやはや、人生何が起こるかわからない。
しかし、試験直前に会社が諸事情で倒産。何に活かせるのか全くわからない状態で、試験だけ受けることになった。
受験後、各予備校さんの解答速報で自己採点をしてみたが、合格は絶望的である。正式な結果発表は1月なのだが、期待していない。
かといって来年の試験に再チャレンジするほどの気概もなく、試験勉強が存外面白かったからといって他の士業受験に切り替えようという希望もなく、惰性で今を過ごしている。
行政書士試験自体は職業意識の幅も広がったこともあり、やってよかったと思っているのだが、同時に失望感も強かった。
「誰かの役に立つから」「仕事に役立てることができるから」といろいろ頑張ってみても、まぁ報われないのである。
社会人になってから、ステップアップした記憶も実感もない
今回の会社倒産のようなことは初めてではない。むしろ「またかよ」といいたくなるほど私の中では多いパターンだ。
私自身「何がやりたいかもわからないし、やれば何でもそれなりにはできるタイプ」ということもあり、期待してくれる誰かの意向に沿って行動することはままある。しかしその誰かの素行がおかしくなって結果すべてがおじゃんになるというバットエンドが、なぜかセットなのである。
無論、私自身もたいした実入りもなく、ただただ消耗して終わる。
この消耗感にほとほと嫌気が差したのだ。
他人に尽くしたところで私の生活は好転しない。むしろ空回りした失敗経験が増えて自己肯定感がむしり取られていく気がする。
少なくとも社会人になってから、何かがうまくいってステップアップした記憶も実感もなく、ぐるぐると同じところを停滞しているように思っている。
そんな不毛な挑戦を延々繰り返すくらいなら、何もしないほうが賢明だと思い始めたのだ。
何もしない。何もしないで、休む。自分を大事にする。コマンドは「いのちをだいじに」もとい「こころをだいじに」で過ごす。
まぁ何もしないということ自体を言葉通りに実行するとなると、これはこれでかなりの苦痛なので、まるっきり何もしないということはないと思う。それでも「○○をやるんじゃあ!」という勢いとか気合とは、無縁で過ごしたいと思っている。
今まで頑張ってきたから、2022年は惰性で過ごす。
それを実践するべく、年末から特に計画性を持たないぐうたらライフを実行中だ。
今日に関しては久々に12時過ぎまで惰眠をむさぼっていた。
ここまで安心して寝ていられるのは、人生初ではなかろうか。
面舵一杯の作戦変更。ご褒美タイムの1年が何を生み出すのか
来年で30歳。30代突入である。
20代のうちはがむしゃらに頑張っていることことか、「夢」と呼ばれる何かを追いかけていることが義務であり、まわりの期待であったように思う。
それは十二分にやったので、ただたた自分のためのご褒美タイムを設けようと思うのだ。
もうある意味で若くはない。
だからこそ存在する、前向きな諦めと新たな希望があるように思う。
やっと「善は急げ」から「急がば周れ」に気持ちも状況もシフトできたことに強い安心感を覚えている2021年の年末である。
さて1年を惰性で過ごすというのは私の中ではかなり新たなチャレンジである。
何かがうまくいかないと嘆くのなら、手段や作戦を変えるのは手段として鉄板であろう。
2022年の新しい試みがどんな変化をもたらすのか。
実に楽しみである。