初めての一人暮らしは、シェアハウスだった。
一軒家の中に、日当たりが悪く風通しも悪い、収納のない四畳半の部屋が10数個。家賃は都内にもかかわらず3万円台。居住者は女性のみのシェアハウスだった。
シェアハウスに決めたのは、単に金銭的な理由だった。
上京当初、手持ちのお金はほとんどなかったため初期費用や家賃が払えず、物件探しは難航。半ば選択の余地なくシェアハウスに決めた。

人の出入りが多いシェアハウスに訪れた「コロナ禍」での出来事

シェアハウスというと、リアリティーショーの影響か、キラキラした共同生活をイメージされることもある。しかしその実態は運営会社によってさまざまだ。
私が入居していたシェアハウスは10人ほどが暮らしていたが、交流はほとんどなく、隣に住む住人の名前さえ知らない。深入りはしないことが暗黙の了解になっていた。
女性限定のシェアハウスだったが、その属性は様々だ。スタントマン、非正規雇用者、身体的なハンディキャップを抱える人、発達面のハンディキャップを抱える人など。そこは、社会ではいわゆる「弱者」とカテゴライズされるであろう人たちが多く暮らしていた。

人の出入りも多かった。
夢追い人や非正規雇用者など、仕事場に応じて住む場所を身軽に変える人が多かったのもある。だがそれ以上に、日当たりや風通しの悪い四畳半での暮らしは、非常に人を選んだ。長引くコロナ禍は、シェアハウスの住民たちを直撃する。ステイホームと失業の波である。
決して良いとは言えない住環境のなか、先の見通しが立たない状態で閉じこもるのは無理があった。夜中に発狂して、いつの間にかいなくなった人を何人か見た。社会のしわ寄せの行きつく先を目の当たりにし、私は言葉を失うばかりだった。

共に暮らす住人の名前を聞かないのは、私たちなりの配慮の無関心で

それでも、残された住民たちの暮らしは続いていく。
社会の非常事態時に、傷つきやすい属性にいる私たち。お互いを傷つけず共存するためには、穏やかな無関心が必要だった。

それは、余計なことは言わず、名前も聞かない、配慮としての無関心だった。落ち込んだ夜は、自分ではない誰かが生活する音に支えられた。野菜を切る音、スープを煮込む音、食器を洗う音、洗濯機を回す音。他人の生活音は、名前も知らない隣人の、暮らしを維持する努力を感じることができた。

自分以外の人がすぐそばで、生きる欲求を満たしていることは、なにか特別な力があった。自分のことがおろそかになるたび、隣人の努力に耳を澄ませて救われた。はじめての一人暮らしが本当に一人だったとしたら、私はその静寂に耐えられなかったと思う。

また、彼女たちはタフだった。コロナ禍で仕事をすべて失ったスタントマンは、次の月の収入がゼロになるから家賃が払えないとこぼしていた。それなのにどこか口調は楽観的で、夢追い人にふさわしい豪胆さだった。そして、気が付いたらいなくなっていた。別れの挨拶もできないまま去っていった。
隣に住む住人は、どこで手に入れたのか、大きく立派な台湾パインをプレゼントしてくれたことがある。その時私は初めて、隣人が耳が聞こえないことを知った。筆談をするのもそれが初めてだった。精一杯の感謝を伝えたつもりだが、はたして伝わっていただろうか。

不思議な連帯感で支え合うシェアハウスのことは、きっと忘れない

自分が苦しいとき、一番初めに失う感情は他者への配慮だと思う。しかしシェアハウスの住民たちは、最後までそれを失わなかった。名前も知らず、会話もほとんどないにもかかわらず、不思議な連帯感で支えあう奇妙な空間だった。

思えば皆、自分の意思決定がどういう結果になろうとも受け入れていく覚悟ができている人たちだったのだろうか、と思い返す。住民たちは20代前半と思われる若い女性たちがほとんどで、まだあどけなくか弱さが残る年代だった。しかし、みんな腹をくくっていた。その選択がもたらす結果よりも、自分自身で意思決定をすることをなによりも重要視していた。その強さこそ、この不安定な時代をゆくのに最も大事な価値観なのではないかとふと考える。

今の私はシェアハウスを離れ、一人で暮らしている。2年ほど住んでいたシェアハウスでの暮らしは、あたたかな実家に暮らしていたころには想像もできなかった世界だったけれど、あのときの奇妙な連帯感を、私はきっと忘れないだろう。