サンタさんを信じていたころ、クリスマスは1年のうちで最も楽しみな日だった。
クリスマスが近づくと、「いい子にしていないとほしいものがもらえない」と、いい子を始める。しんしんと降る雪が辺り一面を真っ白にし、クリスマス気分を盛り上げる。

願ったものが届かないことで、かえって納得していた

サンタさんはいない。
私がその事実を知ったのは、中学生になってからだった。
小学校に上がる前、サンタさんの秘密が描かれた絵本を読んでもらったことがある。サンタさんはどうやって一晩で世界中の子どもたちにプレゼントを届けるのか、煙突のない家にどうやって入るのか。そういったサンタさんの秘密が描かれたお仕事図鑑のような絵本は、小学生になる前の私がサンタさんを信じるのには十分なものだった。

サンタさんを信じていた私は、普段買ってもらえないようなものを毎年お願いしていたが、ほとんどもらえることはなかった。「やっぱり外国から日本を見るのは難しいんだなあ」と思って納得していた。願ったものが届かないということが、かえってサンタさんがいるという証拠になっていたのだ。
しかし、何年経っても願ったものが届かないので、サンタさんはいないんじゃないかと思い始めていたときがあった。
そんなある年、「ドールハウスがほしい」という一年越しの願いが叶った。「プレゼントを準備するのにも時間がかかるもんなあ」と、またしても私は納得していた。

証拠がない限り、「サンタさんはいない」とは思えなかった

小学校中学年から高学年くらいになると、「サンタさんからもらう前にプレゼントが家に置いてあるのを見た」という子や、「親や兄弟からサンタさんはいないと言われた」という子が増えてきた。
6年生になると、クラスでサンタさんの存在を信じているのは、私と1人の友達くらいしかいなくなった。それでも、サンタさんがいない証拠が見つからないことには、サンタさんはいないと信じることは私にはできなかった。

私は「サンタさんはいない」という証拠を探したくなった。夜遅くまで起きていればサンタさんはやってこないので、夜更かしして確かめることはできなかった。だから、朝早く起きてみたり、夜中に一度起きたりしてみた。
夜中に起きたときはまだプレゼントは枕元になかったが、1番に私が起きたときには、プレゼントはもうすでに枕元にあった。結局サンタさんを見ることは一度もできなかった。

サンタさんの正体に触れることはタブー。大切な思い出としてしまっておく

サンタさんがいないことに気づき始めたのは、中学生のあるクリスマスだった。
その年のプレゼントは小さなアロマ加湿器で、箱には近所の雑貨屋さんの店名が書かれていた。それを見たとき、「あそこなら親が買いに行ける。サンタさんはやっぱり親なんじゃないか」とサンタさんがいることを疑った。
それが確信に変わったのは、毎年届くサンタさんからの手紙のフォーマットが、パソコンに入っているのを見つけてしまったことだった。

「うちのサンタさん」は本当に巧妙だった。私がどんなものを願っても、プレゼントはほとんど毎年外国のカードゲームだった。サンタさんとトナカイさんへのクッキーは次の日の朝になると必ずなくなっており、そこには日本語と英語で書かれた手紙が置かれていた。
親は私と同じようにクリスマスディナーやケーキを食べていたので、おなかがいっぱいでクッキーは食べられないと思っていたし、外国語というのも外国にいるサンタさんからのプレゼントや手紙であることの証拠だと感じていた。

あれからもう何年も経つが、サンタさんについて親と話をしたことはない。サンタさんの正体に触れることはタブーであるような気がしたからだ。
それに、サンタさんがいると信じていたあの頃のことも、いることを疑いながら証拠を探したあの頃のことも、私の大切な思い出として心にしまっておきたいから。