教員免許の砦である教育実習で、味方はゼロの状況。アウェイだった

教育実習。主に大学4年次、教員免許を取得するための最終関門と言える。この実習を通じて、過酷さを知ったり、逆にやりがいを感じたり、さまざまな考えが生まれる現場だ。
私は教育実習に関して、天国か地獄かと聞かれたら圧倒的に「地獄」だった。

まず、いじめられっ子で学校にいい思い出がない人間が教員免許を取るのは、何もなくともしんどい日々だった。
児童心理や学級経営、だいたいが破綻していた綻びの糸くずが目に入りながら毎日泣いていた日々を思い出す。

そのため、お気持ちはマイナスからのスタートである。教員系の授業のおかげさまで単位数は恐ろしいことになった。
気持ちも休まらない日々だった。教育実習も案の定、お気持ちは暗いものだった。

進学校の女子校では、教育実習で数学は私一人だけ。
「どうする〜?」と胸躍らせキャッキャと話をしている英語・生物多めの理科・音楽等の同級生たちの中、一人だけ初日から追試の立ち合いをさせられ、毎日小テストの採点をしていた。

「英語大好きなの」「音楽好き」といってくれる生徒は女子校である母校にはたくさんいるが、「数学」に関しては親の仇の方がある意味では多いのが我が母校である。
また、有数の進学校である本校は、学校でトラブルに巻き込まれたり、お気持ちお察しいたしますという目に合わなかった人たちが圧倒的に多い。教育実習で学校に戻ってくる人なんかは尚更である。
科目も気持ちも情報共有できる情報はほとんどない。今でも教育実習の話をすると「なんか可哀想だったよね」という周囲のお声が返ってくるくらいだ。
そんなわけあって、見事なまでに私は当時アウェイであった。

毎日苦しむ私を迎え入れるのは、見事に噛み合わない家族で…

教育実習の期間は、当然ながら高校のそばの実家に帰ることになる。アウェイの母校から帰って居場所としての実家は、今回は申し訳ないがマイナスでしかなかった。
神対応ならぬ塩対応どころか食えない対応だった。コンクリ対応って言っても良いかもしれない。硬い。丈夫だ。支えになるかもしれない。でも食えない。そんな感じである。真面目に当時を振り返ると、3週間ビジネスホテルとかに泊まった方がよかったかもしれないくらいぐらい最悪だった。

某映画の「私は街で暮らし、そなたは森で暮らそう」的な言葉が脳裏を何度も過った。
辛くて返ってくると、声がかけられる。
「泣かないで」
違うんだよ、私はしんどいんだ。しんどいから今、泣きたいんだよ。
「ご飯できてるから」
気持ち悪くて何も食べたくないんだよ。
「辛かったらやめちゃってもいいんだよ」
違う、そうじゃないんだよ。
「食べればげんきになるから」
ならねぇよ。
「頼りにしていいんだよ」

すごい。見事に噛み合わない。
私が足りていないのは体力じゃなくて気力だ。「HP(体力)」じゃなくて「MP」や「PP」である(※ゲームなどでマジックポイント、パワーポイントといった技を繰り出す際に利用される表現)。HPをどんなに元気にしようとしたって別の栄養になるだけだ。

信じられないレベルで自分の親なのに理解および会話ができていない。外科と内科の処方を間違えたレベルで処置があっていない。足を骨折したのに耳鼻科にかかるようなものだ。
すごい、何一つこっちに言葉が通らない。というか気持ちが喉を通らない。向こうもそう思ってるだろうけど。

結局私は教育実習中に1週間で6kgくらい一気に太った。最終的には3週間で10kg 太った。体が重かった。気持ちも物理的にも重かった。
顔を洗っても洗っても、食べたものの油分が顔にふき出続け、痛みを伴うニキビだらけで化粧もできず、薬を塗る毎日だった。最後の集合写真の私の顔は「土色」だった。

残念ながら「元気がなくなる」ことを両親は「体力がなくなる」といった視点でしかほぼ知見がない。
赤道直下の島を出ない人たちに、凍死の恐ろしさの話をしてもどうしようもないのだ。
この人たちは私の応援してくれるかもしれないが、価値観や最初にダメになる場所が違う。
家にも職場にも居場所がないってこういうことなんだ。
ものすごく苦しかった。心の底から親が頼りにならないとはまさにこのことだった。

結局一番「頼れた」のは、時を経て出会った経験もない後輩だった

そんな中、一番頼れた人。というか私が一番頼った人たちは、時を経て出会った「部活の後輩」だ。
放課後は部活指導という名目で皆さんがスポーツや音楽に勤しむ中、私はどんよりと生物室に入り浸っていた。

「先生カードゲームやらない?」
「する」
私が一年生くらいのときにゆるく理科系を楽しみたいと思って、復活させた生物部だ。
8つ下の後輩たちは、のんびりとウーパールーパーの前で児童向けカードゲームをし、おしゃべりをしながら水槽の掃除をしていた。

涙が一滴も出なかったのは、ここだけだった。正負を抜きにして「無」でいられた。
ぼうっと水槽を眺めながら過ごした。
絆だの、恩だの、時間だのよりも、その場にいた後輩たち。
彼女たちが一番心底精神的に支えとして「頼る」ことができた場所だった。
よく「回答なし」とか「答えなし」が正解である場合がある。
自分の状況はそれに近かった。

彼女たちの塩でも砂糖でもない対応。
私の中では、それが特大の花丸レベルだった。
「頼る」というと、縋ったり、声を荒げたり、ボロボロ泣いたり、ヘルプを叫ぶ姿がわかりやすい。
赤ちゃんが、食事や排泄のたびに泣き叫ぶように、頼ることはわかりやすいイメージやシグナルがある。

ただ、頼る方法はそれだけじゃない。
私は空気を「読んで」ほしいわけではなかった。空気で「いて」ほしかった。
オーディエンスはいらないというより、無でいてほしかった。
大きな思いや気持ちよりも、ただいてほしいだけだった。
よりかかり、支えにする相手ではなく、じっとすごし、同じ空気の中にいてほしかったのだ。

当時の私にとって心地よい「頼り」の形は、支え棒でも、大きな壁でもなかった。
経験、長い付き合い、知識、相手への思いが通じない世界も今回体験した。
誰かの「頼り」になるとき、どんな姿でいたいか、いてほしいのか考えた上で、「頼れる」人に、そして誰かをうまく「頼れる」人に私はなりたいと思う。