あの人、父への詫び状とでもいおうか。父には、謝りたいことが幾つもある。

私は今、しがない会社員をやっている。マーケッター、なんて聞こえは良いが、毎日毎日納期に追われ、ヒイヒイ言いながらパソコンに向かい、企画を出しては戻される、そんな仕事だ。

「教師になってほしい」と願う父の気持ちに私は応えられなかった

私がまだ大学生だった時の話だ。父はよく、私に対して「教師になってほしい」と言っていた。父自身も教師を目指していて(試験に受かったにも関わらず別の道を選んだのは父自身の選択だが)、それがあってか私に教師をよく勧めた。

「すだれは優しい子だから、辛い思いをしてほしくない」そう母へ漏らしていたらしい。正確には、“優しい”というより“心が弱い”なのだが。

大学3年生の秋が始まってすぐの頃、父が突然倒れた。すぐに病院に搬送され、緊急手術。重い病気にかかっていることが明らかになった。同時に、5年生存確率が極めて低いことも。

父の願いを叶えたい。私はそう思い、教師になろうと心に決めた。でも、口に出しては言わなかった。私の決意は常に弱かったからだ。

大学4年生になった私は教育実習に行き、毎日担当教諭に怒られ泣いていた。学校から家までは歩いて10分もあれば着く距離だが、私は帰り道泣き続け、途中にある寺の入り口で座り込んで、また泣いていた。家に着くまで1時間かかった。

私は教育者に夢を抱いていた。それがたった3週間の実習で私の夢は完全に砕け散り、教師には絶対にならないと、暗黒の記憶に蓋をすることにした。

教員になりたくない。そんな思いは父に見破られていたようで「そんな思いでは、教員どころかどこの企業にも受からない」と叱責を受けた。

父は私が教師に向いていると思ったのか?私になれるはずがないのに…

同じ時期に、私はダラダラと就職活動をしており、教育実習から1ヶ月後、地元ではそれなりに有名なとある企業から内定を貰った。父にそれを伝えると、私以上に喜んでくれた。「まさか受かるとは思わなかった」と言われたのは少し心外だったが。

父は喜んでいてくれたが「やっぱり教師にはならないのか」と、聞いてきた。「ならないよ、なりたくないよ」とは言えず、「採用試験は受けてみる。難しいかもしれないけれど」と答えた。

採用試験の勉強もしない私が受かるはずはない。もちろん落ちた。父は少し寂しそうに見えた。父には、私が教育者に向いていると思ったのだろうか。意志も心も弱い私が、教員になれるはずがないのに。

無事入社をし、私は私なりの努力のもと業務に励んだが、全てうまくいかないことばかり。通勤の車の中で、私はいつも泣いていた。また怒られる。上司からの指示を理解できない。人格否定をされる。もう仕事に行きたくない。

しかし、私は会社を休むことができなかった。父の期待を裏切るわけにはいかなかったからだ。父はきっと、私がしっかり働いていると思っている。そんな父の期待に応えなければ。

いつも優しくて「愛に溢れた父」がこの世を去って思うこと

父の病状は悪くなる一方で、冬には「持ってあと2、3日」と告げられた。ショックのあまり泣くことすら出来なかった。いつ急変するか分からなかったので、母と私と妹で病室に泊まった。

夜。ふと目を覚ますと、父の掛けていた布団がはだけていた。「寒い? 掛けるね」私が告げ、布団をそっと掛け直すと「あ、り、が、と」と掠れる声で、父がそう答えた。

お礼なんていいのに。当たり前のことをやっただけなのだ。私が偶然目を覚ましただけなのだから。涙がこみ上げてきて「ううん、ううん」と何度も首を横に振りながら、布団の端を握りしめた。

再び私が目を覚ますと、父の意識は既に無くなっていた。そして次の日、昏睡したままこの世を去った。

私は良い娘だったのだろうか。父の三回忌を迎え、そんなことをよく考える。父はいつも優しかった。叱責にも愛が滲み出ており、私はそんな父が大好きだった。

「すだれは、やれば出来る子だからな」父に以前、そう言われたことを思い出す。そんなことはない。やっても出来ない事だらけだ。出来ているように見えるとしたら、それは出来ている風に繕っていただけだ。

隠していた出来ない事も、もうお見通しだろう。「ごめんね。辛い思いはしていても、それでもなんとかやっていくよ」そう伝えるために、私は今日も線香を上げる。